理念・政策・メッセージ
2025.01.09
「選択的夫婦別姓に関する私の考え方」
〜国民的に噛み合った議論を〜
選択的夫婦別姓を可能とする民法改正について与野党間の議論が盛んになっています。場合によっては令和7年の通常国会で法案が成立するかもしれないとの観測記事も出ています。私も、昨年まで代議士としてこの議論に参加してきました。議員連盟にも加わり、制度所管の法務省、男女共同参画部局からヒアリングを行い、選択的夫婦別姓を求める推進派とこれに反対する慎重派の双方の意見を聞いてきました。
明治時代1898年の民法改正の際に、当初は武家の慣習に倣い「夫婦別姓(氏)」が定められたものが、「夫婦同姓(氏)」に変更されたこと、その理由が、当時、嫁の立場が弱く、嫁した妻は家の中で一段と低い地位に置かれ、その地位向上の為にも夫婦同姓という対応をすることにしたとの説明を法務省当局者から伺いました。夫婦別姓を制度として持つ韓国では、「嫁を男の子を生み農業を支える存在とみなし同じ家の人間とは認めないという排他的な印象がある」という新聞記事も読みましたが、明治の民法改正の時代の日本もそうした世間の考え方があり、それを打破する、つまり女性の立場を高めるために夫婦同姓制度が導入されたということだったようです。今はどちらかと言えば、女性の立場を高めるために選択的夫婦別姓制度が主唱されているのですから、1世紀を経て女性の立場がある意味で保護される立場を脱却し、自立する立場になり、本当に強くなったのかもしれません。
その意味では、必ずしも夫婦同姓(氏)が日本古来の伝統文化ではないとの考えになるのでしょうが、少なくとも夫婦同姓制度が130年近い歴史ある制度として日本に定着していることもまた事実だと思います。
実は私が、選択的夫婦別姓を求める皆様に共感するのは、それが本人の権利であるといった点ではありません。私が入っていた議員会館の隣の部屋に土屋品子代議士がおられますが、土屋先生は「氏継承」の必要性を強く意識されています。世の中には、歴史的に由緒ある家系などもあり、少子化の中で長男長女の結婚に際し、どちらかの姓を選択することになるとその家系の姓が途絶えてしまうことになり、そのカップルが結婚を断念することにもなり兼ねない、それは余りにも理不尽ではないか、という点にあります。実は私の身近でもそうした懸念から複雑な手段を講じて姓の変更を余儀なくされた方もいます。謂わば、保守派の観点からの選択的夫婦別姓なのです。
その意味で、私は限定的に選択的夫婦別姓を導入することに理解がある立場です。その「限定的」という意味は、職業生活の上で別姓が不可欠、祖先の祭祀の主宰、氏が途絶えてしまう懸念といった個別事情に限定し、家庭裁判所が個別にそれを判断するという仕組みが良いのではないかと考えています。これを選択的ということで一般的広範に認めると、子どもがどちらの姓を選択するのか、その変更はどうするのかといった観点で幅広い混乱をもたらす可能性があるという思いもあるからです。
過日、夫婦同姓を長年続けると、人口減少の中で、希少な姓が無くなり、日本の姓が一定の限定された数に収斂してしまう、との数学的推論があるという記事にも接しました。こういう点ももっと深く掘り下げるべきです。そのことの成否を政府の関係者に聞いたところ、曖昧な答えが返ってきただけでした。
選択的夫婦別姓の問題は、それをどのような方法で行うのか、それを行った場合の日本の社会や家族制度への影響はどうなるのか、それを行った場合に生じるであろう副作用をどのように解消緩和するのか、といった論点をしっかりと検証して議論して行くべきと思っています。経団連も選択的夫婦別姓について踏み込んだ提言を行っていますが、やや経済的観点が強過ぎるようにも感じます。
選択的夫婦別姓の問題については、法務省のホームページで幅広い論点が紹介されていますが、国民的な議論の広がりはまだまだ足りないようにも思えます。中世フランスの思想家モンテーニュが「愚者のもっとも確かな証拠は自説を固守して興奮することである」と述べていますが、賛成派、慎重派共に、?み合った議論による解決策を見出すことを強く期待します。少なくとも、日本の伝統文化を重んじる国民の間で社会の分断をもたらすようなことになることは避けるべきと願っています。