理念・政策・メッセージ
2014.03.31
「クリミア自治政府のウクライナ分離運動と日本の合併市町村」
我が国は平成の大合併を受けて市町村数が劇的に減少した。明治の大合併では明治21年(1888年)に71,314あった団体数が、翌年には15,859まで減少し、昭和の大合併では昭和28年(1953年)10月時点で9,868あった団体数が、昭和36年(1961年)6月に3,472団体まで減少した。そして、平成の大合併を経て、市町村数は平成11年(1999年)4月の3,229から今や1,719になっている。その分、市町村の行政能力は向上し、合併に伴う行政改革効果は非常に大きいことは言うまでもない。
その一方で、被合併町村の地域では、怨嗟の声も満ちている。修学旅行で国会議事堂に来る編入地区の小学6年生に「合併の評価」を聞くと、殆どの子供たちが、親御さんが合併を後悔しているとの感想である。
合併前に比べて行政サービス水準が低下した、意思決定が遅くなった、合併前に約束した事項が履行されないまま見過ごされている、その地域選出の市議会議員がいなくなりその地域の声が市議会に反映されていない、といった現象がその背景にある。
松本市に合併した旧奈川村、旧安曇村の例で言えば、以前役場に勤めていた職員が、殆ど市街地に「降りて行ってしまった」という合併効果も生じている。しかも市役所ではそれを抑制するための通勤手当の割増などの制度的対応は全くしていない。
一旦合併してしまえば、「釣った魚に餌は要らない」とばかりに、衰退を看過する対応が目立つ。それを見かねて、旧町村地域に有利な国のモデル事業などを紹介しても、役所の対応は、「職員がいない」、「時間が無い」、「金が無い」、「地元に受け皿が無い」との醒めた対応で、極めて後ろ向きの対応に終始することが多い。役所側には、何とか周辺地域が活性化するようにとの熱意や気遣いは全く感じられない。
極めつけは、合併時に被合併町村との取極めを行った事項を、新たに選任された首長が反故にするということも堂々と行われるような事例もある。そうなると「騙されて合併してしまった」との声は増幅される。
片や、平成の大合併で覚悟を決めて自立を目指した市町村は今どうなっているか。当時、交付税大幅削減が見込まれる中、悲壮な決意で合併を見送った町村も少なくは無かった。その結果は、あにはからんや、「とても元気」なのである。合併後、交付税が結果的には削減にならず、むしろ増え、地域の求心力は維持され、今や当時の合併の国策に従わなかった方が正解であるとの評価が町村部では完全に定着している。過日、長野県小川村の村長の村政報告会に出席し、村長の生き生きとした話を聞くにつけ、その周辺地域で長野市に合併した地域の元気度との落差を感じざるを得なかった。
しかし、その原因は、合併そのものに存在したというよりも、吸収合併を行った側にあるようにも思われる。被合併町村の振興を第一に考え、合併時の約束をきちんと果たし、その地域の政治的代表をしっかり確保する仕組みの構築といった行うべき責務を怠ったと言わざるを得ない。
そうこう考えていた折しも、クリミア自治政府のウクライナからの分離独立というニュースが舞い込んできた。クリミア自治政府内で住民投票を行い、その結果によって分離独立(更にロシアへの編入)を目指すという動きである。
この動きが国際法違反である可能性があるという点についてこの場で議論するつもりはない。しかし、同じ仕組みが我が国の国内制度にはあってもよいのではないかと考えるに至った。それは、一旦合併したものの、合併後の市政運営の中で、旧町村地域がないがしろにされるような事態を看過できない場合に、当該地域の住民投票を行い、その結果を踏まえ、旧町村を復活させることが出来る条文を地方自治法に規定すべきではないかという内容である。
現在は、自治体の配置分合の規定があるが、これは関係市町村の申請に基づき、都道府県知事が議会の議決を経て定め、総務大臣に届け出るという仕組みである。実は、昭和18年(1943年)横須賀市に「強制合併」させられた逗子町(現 逗子市)が、昭和25年(1950年)「住民の総意により」、横須賀市から「分離独立」した事例はある(逗子市公式サイトによる)。しかしこれは稀有な例であり、現行の規定では、一旦合併させてしまった市役所は、容易に分離を認めないことが想定される。
そこで、クリミア方式のような手続きにより、被合併旧町村地域住民投票の結果を踏まえ、分離の可能性を認める制度を作るということが私の思いの趣旨である。こうした制度があれば、合併後、被合併町村をないがしろにするような市役所の対応は抑制され、より周辺地域に目配りの利いた地方自治が展開される効果もあると考える。一種の抑止力効果を期待しての「暴論」である。