理念・政策・メッセージ
2011.10.28
「災害復興の時系列で変化するボランティア需要」
〜災害ソフトボランティアに参加して〜
2011年10月下旬、3泊4日の日程で、大学ゼミ生8名を引率し、岩手県遠野市の被災者支援センターを拠点に二度目のボランティア活動を行った。私の奉職している神奈川大学では連続的な被災地支援の枠組みである「ボランティア駅伝」という仕組みにより、安定した学生ボランティア派遣が行えるシステムを構築している。私のゼミとしてはその仕組みによる5月の連休明けに次ぐ再度のボランティア参加である。
5月の連休明けには私のゼミ生有志14名が参加したが、5ヶ月後の今回は男子学生5名、女子学生3名のあわせて8名のゼミ生の参加を得た。5月時点のボランティア活動と発災後7カ月以上が経過した10月後半の時点のボランティア活動ではその活動形態の様相がだいぶ変わってきていた。
5月の時点では避難所におられる被災者向けの直接支援活動などがボランティア支援の大宗をなしており、当時我々は遠野市稲荷下の物資支援センターに全国から運び込まれる物資の仕分け、同センターでの被災者への物資提供を手伝った。その後、被災者の方々が避難所から退去し仮設住宅などでの生活を行う中、こうした直接支援活動の必要性よりは、それまでは手がつかなかった事業への支援活動へと活動の領域が広がっていた。
今回、我々が「遠野まごころネット」の指示で与えられた任務の一つは、大槌町の仮設住宅に入居している被災者の皆さんに対する「ソフト支援」であった。大槌にある48か所の仮設住宅には大槌の各地から被災者の方々が入居している。大小の仮設住宅ではコミュニティが出来上がってまとまりの良いところもあればそうでないところもある。その仮設住宅を訪問し、仮設住宅内のコミュニティセンターや戸外でお茶やコーヒーの提供をしながら、仮設入居の皆様同士の話が弾み顔見知りになるように努め、結果としてコミュニティ造成に資するようにする、という活動への参加であった。
この仮設住宅コミュニティ造成に携わっている団体では大槌町の48の仮設住宅を順繰りに何度も訪問し、その都度全戸に声をかけお茶を飲みながらの互いの意思疎通の潤滑油になることに腐心している。団体の活動はあくまでも住民同士の意思疎通の潤滑油となることであり、出来るだけ相手の話を聞き役に徹するという「傾聴ボランティア」である。できたてのコミュニティの「ほぐし役」という言葉がぴったりの活動であった。学生や私は、寒風吹く中、慣れない手つきでコーヒーを立てたり、おばあちゃんたちの話に相槌をうったり、仮設住宅に声をかけお茶の会にいらしてくださいと声掛けをするといった活動を行った。
もう一つの任務は、遠野文化研究センターが主催する三陸文化復興プロジェクトに対する協力である。三陸沿岸の市町村の公文書が津波で流されたり津波に浸ったりして棄損された。その中の貴重な文書について、それを「解体」、「乾燥」、「汚れ落とし」、「消毒・除塩」、「再生本」という手順により再生するという遠大なプロジェクトである。私は大槌町の議会文書の再生作業の一端を手伝った。文書の「消毒・除塩」や刷毛による「汚れ落とし」である。解体された文書の一枚一枚をボランティアの流れ作業により進めるのである。一連の作業工程は良く練られた手順として完成されている。これも災害復興の貴重なノウハウであると強く感じた。私自身の作業中、昭和11年当時の大槌町の災害復興の際の銀行とのやり取りの文書が目に付いた。金策に追われる当時の町長と銀行のやり取りがリアルで印象的であった。
遠野市が進める献本プロジェクトに対しても学生とともに手伝った。岩手の被災地の皆さんに本を送ろうというキャンペーンを呼び掛け、全国から多くの書籍が遠野市に寄せられてきている。遠野市ではそれを分類整理して希望する町村に譲渡するというプロジェクトである。様々な書籍をジャンル毎に分類し、ラベルを張り、データ管理するという組織だった手続きは図書館司書による専門的指導のもとで整然と行われた。
5月時点のボランティアと今回の10月時点のボランティアと比較し、明らかにボランティア需要が変化し、よりきめ細やかな分野の需要が必要とされていることを実感した。災害復興のボランティアに対する需要が無くなることは当面はないことを確信した。
今回の大震災は、確かに日本の社会にとっての大打撃である。しかしその打撃の復興の過程で日本社会がより強靭な社会として再生する一歩一歩を今現在我々は歩んでいるように思える。
その意味で、多くの日本人、そして特に若い学生諸君には、その復興過程に自らも被災地ボランティアとして関係したという心の刻印を刻んでおいてほしいと思う。それもまた日本の将来の発展に繋がる要因である。