〜日本経済の成長と官僚制の役割の変化〜
朝日新聞が3月のグローブで「公務員の使い方仕え方」という興味深い記事を特集している。
特集記事は、つい最近まで官僚は与党と一体となって国を率いてきたが、鳩山政権は、そんな時代の幕を引こうとしているとの現状認識の下、「政」と「官」の関係がきしみ、乱暴過ぎて官僚のやる気が落ちるようなことがあれば国民が困りかねないと懸念を示しつつ、本来、国民全体に奉仕する存在である公務員について、政治は使い方を、そして公務員は仕え方を再定義するよう迫られているとの問題意識に基づく記事である。元官僚として、そして現在政治の道を目指している私も、この特集記事の問題意識とその提言に共感を覚える。
私が思うに、日本が福祉国家に向かう中で官僚制が果たしてきた役割と市場原理の浸透により官僚の果たす役割が大きく変化しつつあることは間違いがない。戦後復興期から高度成長時代における官僚の自負は、当時の学生に共通した時代の意識があったと想像できる。昭和50年代半ばに官僚となった私たちも同じ思いがあった。個別利益に奉仕することへの抵抗感、自分の人生は社会的に価値あるものに奉げたいとの使命感に裏付けられ、「金儲けなどに人生をかけるのはいかがなものか」といった雰囲気が大学同期の相当数のものに共有されていた思いがある。
当時の官僚のイメージとしては、官僚は全体の利益を考えて新しいビジョンに挑戦し、政治家は逆にそれに立ちはだかる個別利益の擁護者であるとの見方が一般的で、マスコミや言論界も、官僚批判はしても、「結局は君たちしかいないので頑張れ」というエールが込められた温かい眼差しがあったように感じられる。
そうした官僚に対する評価の社会的背景としては、日本は敗戦の痛手から立ち直る過程でまだまだ貧しく、東西対立が厳しい中で、日本全体が力を合わせていかなければ日本は成り立っていかないとの緊張感が社会全体に満ちていたこと、国家・官僚による調整の拠り所である相互扶助、公共性、平等な配分といった理念が抵抗無く受け入れられる社会的土壌が存在していたこと、官僚自身も既得権者ではなく貧しい社会の一員であり、改革を進める側に立っているとの一体感があったこと、などがあげられるように思う。我々より前の世代の官僚たちの「革新官僚」の伝統、そして戦後改革の成果としての農地改革、シャウプ税制などは、その証拠と言ってもよいかもしれない。
その後日本が豊かさを獲得する中で、日本社会における官僚像のモデルが崩壊してきたということが官僚制の有り様と評価を変えてきたように思う。官僚像のモデルの崩壊として次のような点が挙げられるのではないか。
1つには、平等思考の極めて強い日本では、経済的報酬と社会的評価、つまり「カネと名誉」の配分には極めて敏感である。尊敬された江戸の武士は権力と教養はほぼ独占していたものの、まるっきり金がなかった(「武士は食わねど高楊枝」)。それと同じように、高度成長期の官僚の処遇は劣悪で、「金よりも仕事」だということで霞ヶ関には人材が集まった。国民もそうしたバランス感覚により官僚制の欠点を大目に見るところがあった。しかし70年代後半から官民格差是正や天下りによる生涯給与の調整により、官僚の「清く貧しく美しく」というビジネスモデルが崩れた。それが日本人の官僚への社会的支持基盤を喪失させたのではないか。昨今の世論の天下り批判は、そのことを裏書きしている。
2つには、競争試験を通じて国立大学や官僚機構は社会的流動性、社会階層入れ替え機能を高める機能を果たしてきたが、今日ではこれらがその機能を喪失した。昔は貧しい家庭の子供でも勉強が出来れば官僚となり社会的リーダーとなることができた。特に東大法学部は社会階層入れ替え機能を果たしてきた。しかし、現在は東大の学生の親の所得は日本で最も高い水準にあり、また地方出身者比率の激減により、官僚機構は既得権維持装置と見られ庶民の支持を喪失した。
3つには、市場の失敗・政府の役割が強調された福祉国家実現までの時代は、官僚制は自らの存立意義を立証する必要性がなかった。今日のような市場メカニズム重視の時代になってくると、官僚制はその有意義なことだけでなく、自らが「有害でないこと」の証明を求められる始末である。その結果、官僚の仕事が大変やりにくい時代となってしまった。
以上のように考えると、官僚制が有効に機能した時代、つまり戦後と高度成長時代とは、むしろ歴史の偶然の中で生じた異例の時代であり、現在は官僚制の在り方が正常な普通の状態に戻っている過渡期のきしみの過程にあると考えるべきなのだということになる。戦後から高度成長期に向かう頃は、GHQの間接統治システムの下、その後ろ盾を得た官僚が戦後システムの構築を大きな裁量を持ち自由に行った、とも言える。あの時代は党人派の政治家は公職追放でいなくなり、政治の世界も官僚出身の政治家が歴代の首相を務めるなど、政治すらも官僚化していった時代であった。
そのような中で、官僚を使いこなす政治家、政治家に適切に仕える官僚の双方が機能しなければ、これからますます国際競争力が激しくなる中で日本が立ちゆかなくなることを懸念する。官僚制度の研究の権威であられる村松岐夫京大名誉教授が、グローブの特集記事の中で、「世界の中で通用する専門性を磨け」と官僚に呼び掛けている。これまでの官僚は、頻繁に異動があり、様々な分野を薄く広く経験する中で、「ミニ政治」を自らがやっているようなつもりになっていたように思う。これからは、政策通の国の将来を考え抜く力のある政治家を専門知識を武器に官僚が支える、という政と官の補完関係がもっとも望ましいように思われる。官僚を敵視して機能させないなどということは国益を損する愚の骨頂である。
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