近年、日本各地でクマの出没が相次ぎ、捕殺数も急増しています。 「なぜ、これほどまでにクマが人里へ降りてくるのか?」 この問いに対して、軍事評論家・兵頭二十八氏が興味深い視点を提示しています。抑止力という観点は、軍事でも熊対策でも共通の論点なのです。
1 古来、人間は“抑止力”を持っていた
兵頭氏は2026年9月23日の論考でこう述べています。
「古来、村人は脅し鉄砲や犬を用いて、境界を越えてくる有害獣を看過せず、発見の都度排撃意思を示してきた」
昔の村では、クマが集落に近づけば必ず人間側が反応し、 「ここから先は危険だぞ」というメッセージを明確に発していました。
その結果、クマの側にも 「里へ近づくのは危険だ」 という学習が自然と形成されていたのです。
2 現代の熊問題は「抑止力の喪失」から始まっている
しかし現代では、この“対熊抑止力”が大きく弱まっています。
・鉄砲の不使用で威嚇音が消えた
・番犬文化の衰退、猟犬の消滅で犬の存在感が薄れた
・追い払い技術が地域から失われた
・集落周辺の藪や誘引物が放置され、境界線が曖昧になった
こうした要因が重なり、クマの側で 「里は危険ではない」 という誤った学習が進んでしまったのです。
その結果、出没件数は増え、事故も増え、捕殺数は過去に例を見ないほど膨れ上がっています。
3 必要なのは「対熊抑止力の再構築」
現代の熊問題は、単なる個体数の問題ではありません。 人間社会が熊に対して示す“抑止力”が弱まったことが、構造的な原因となっています。
だからこそ、対策は次の二本柱で考える必要があります。
�@ 出没後の対応
追い払い、被害防除、緊急時の安全確保
�A 出没前の予防
境界形成、誘引物管理、抑止力の付与
特に�Aの「出没前の予防」は、事故を未然に防ぐための最も費用対効果の高い施策です。
4 犬のマーキングが“現代版の抑止力”になる
こうした予防策の中で、最近注目されているのが 縄文柴犬研究センターによる「犬のマーキングを活用した境界形成」です。私も最近、その取り組みに触れる機会がありました。その際に学習した内容のエッセンスは以下の通りです。
�@ 犬はクマにとって警戒対象
クマは犬を天敵として認識しており、犬の匂い(マーキング)は強い警戒信号になります。
�A 集落周辺を犬が巡回すると「匂いの防護帯」ができる
犬が散歩でマーキングを行うだけで、 「犬の存在を示す境界線」 が形成され、クマがその帯を避ける傾向が確認されています。
�B 秋田県・埼玉県で効果を確認
出没が深刻な地域で検証したところ、
・犬のマーキング区域をクマが回避
・市民の散歩で維持できる
・専門機材不要で低コスト
・持続可能な市民参加型の予防策
という結果が得られています。
これは、古来の「犬による抑止力」を現代的に再構築する取り組みと言えます。
5 犬の稽留義務の“合理的な緩和”も議論すべき段階に
ここで鍵になるのが、犬の稽留義務(係留義務)をどう扱うかという問題です。
現在、多くの自治体では「犬は常時係留」が原則ですが、 クマの出没が常態化している地域では、これが“抑止力の発揮”を妨げるケースがあります。
�@ 犬が自由に動けない → マーキング帯が形成できない
�A 番犬としての存在感が弱まる
�B 人間社会の「境界線」がさらに曖昧になる
もちろん、無制限に放すべきだという話ではありません。 しかし、集落外周の限定区域で、住民の管理下で犬が巡回できる仕組みは、 クマ対策として合理的であり、地域の安全に資する可能性があります。法律上もこの稽留義務は例外的に解除される場合があるのですが、その基準が明確ではないという問題があります。
これは、ヨーロッパの牧畜地域で行われている「ガーディアンドッグ(護畜犬)」の運用にも近い発想です。
“犬の稽留義務の合理的な緩和”は、対熊抑止力の再構築に不可欠な論点として、今後議論すべきテーマです。
6 予防策として正式に位置づけるべき
以上の知見を踏まえ、行政には次の点を検討してほしいと考えています。
�@犬のマーキングによる境界形成を、非致死的獣害対策の選択肢として追加すること。
�Aモデル地域で試行し、効果検証を行ったうえで環境省ガイドラインに組み込むこと。
�B住民参加型の運用モデル(散歩ルート設定・地域犬の活用)を整備すること。
�C犬の稽留義務の合理的な緩和を、限定区域で検討すること。
�D長野県・秋田県などの知見を全国展開可能な形で整理すること。
7 古来の知恵を現代に生かす
兵頭氏が指摘するように、 「人間社会が熊に対して示す抑止力」が弱まったことが、現代の熊問題の根本原因の一つです。
犬のマーキングを活用した境界形成は、 古来の知恵を現代の科学と地域資源で再構築する試みです。
そして、犬の稽留義務の合理的な緩和は、 地域の安全を守るための“現代的な抑止力の再設計”と言えます。
非致死的で持続可能。 市民が参加できる。 地域の文化とも親和性が高い。
こうした予防策を積み重ねることで、 人と熊が適切な距離を保ち、安全に共存できる未来をつくることができるはずです。
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