「メディア・リテラシー」

 以前「メディア危機」(アンドリュー・デウィット他著:NHKブックス)という本を読む機会があった。古くて新しい問題として、メディアによる世論誘導という問題がある。最近では、政治的権力や経済的権力を持つものだけでなく、時としてメディアの発信者さえも意図しない方へ向かってしまうことがあると論じている。

 バッシングなどがその例として挙げられ、ある象徴となる国や人物が「悪」の根元であるかのようなイメージを作り上げることが出来れば理屈抜きに自らの政策の正統性を演出できる、と記されている。シニカルな見方を提供することも読者に超越的観察者のような位置を与えることになり、重要事項にコミットすることを避ける傾向を引き起こすこともある、というものだ。

 「スピン・ドクター」という言葉がある。政治においてある出来事や話を「スピン」するという場合に、特にマスメディアを使い出来事や話を自分自身に有利なように、そして政治的ライバルに対して不利なように描写するという意味が込められ、この様な仕事のために雇われている人々(例えばホワイトハウスの報道官のような人)は、多くの場合、「スピン・ドクターズ」と呼ばれる。

 多様な問題の報道に影響を与えたり、報道させなかったりすることに秀でた彼らの特殊な能力や訓練があり、例えば、他者の発言の戦略的引用、事実を注意深く取捨選択し、憶測もそれがまるで事実であるかのように思わせる言い回しの熟達、衝撃的な出来事がニュースの中心となるはずの時に別の情報を流してその重要な問題を「埋めてしまう」姑息な手段、などがあるのだそうだ。

 読者としては、新聞や雑誌、テレビを見ることは、現実そのものではなくそれが構成されたものであり論理的に分析できるということを理解しないといけない、それがメディア・リテラシーの基本的メッセージであり、スピンの根底に潜む利害関係を理解し、そのスピンが利用している手法を見抜く方法を教えるというのがメディア・リテラシー運動となっている。

 先進国では、1980年以降、学校教育においてより洗練されたメディア・リテラシー科目が普及しているのだそうだ、スピン・ドクターのいる米国ではその運動が弱く、日本もまた、メディア・リテラシーや批判的思考の教育が殆ど行われていないとこの書は指摘している。

 イラクでの女性兵士ジェシカ・リンチ救出劇の演出のされ方、イラクにあったとされた大量破壊兵器の存在証拠の捏造のされ方などを実例に挙げ、操作されないリテラシー訓練の必要性を畳みかけてくる。

 情報操作が行われる局面で、二分法的報道が行われがちである。日々視聴率や読者数の獲得競争に曝されているメディアは、二項対立の図式を使って、より分かりやすい記事や番組を作る傾向があるが、二分法では到底解決不能なものが、分かりやすさ故に人々に受け入れられていく危険が生じる。

 一時期の「官から民へ」というキャッチフレーズについても、公的部門のモラルが崩れている中で官は悪で民は善だという議論が人々の耳に入りやすいが、民営化や規制緩和で市場に任せればよい結果になるというのは単純であり、民間企業でも銀行の不良債権隠し、BSEの日本ハム、雪印、三菱自動車のリコール隠し、JCOの臨界事故など数多くの民間企業にモラル低下が見られ、問題は、日本の意識決定や組織の在り方そのもので、官も民も問題を抱えていると書いている。

 軍隊まで民営化した結果、何が起きているかが詳しく紹介されている。イラクでは、民間企業の提供する傭兵需要が「バクダッド・ブーム」と呼ばれ、民間兵士の賃金は正規軍兵士のそれを大きく上回り、しかも、民間兵士は訓練の程度や交戦規則を守る意志について均質ではなく、「傭兵たちはもっと危険だ」と言われている実態が紹介されている。形式上「民間人」であるため、軍隊による戦争犯罪を処罰するジュネーブ条約の隙間となっている。そして、誰が民間企業兵士の行動を監視するべきか、という本質的な問題を、多くのメディアは迫ろうとしないと、この本は指摘している。

 医療保険を民営化した米国で、結局のところ、途方もない非効率と格差を生んでいるという実態も紹介されている。他の先進国での医療保険設計の「唯一の支払い者」制度から生じる購買者独占が米国には存在しないことから、米国では、医療サービスに大きな無駄が生じ、価格のコントロールが困難になっていることが原因と整理されている。

 ステレオタイプなイメージ形成が行われる過程に関し、「確証バイアス」と「外集団同質性バイアス」という原因要素があると紹介されている。「確証バイアス」とは、自ら見たいものや見ると予測したものだけに注目しその固定概念に反する証拠を軽視する傾向であり、「外集団同質性バイアス」とは自ら属する集団のメンバーを他の集団のメンバーよりも多様だと考える傾向が生じ易いのだそうだ。

 メディアによる情報操作の危険性を巡って、既に1920年代にリップマンとデューイの論争があったことも紹介されている。リップマンは、公正無私なメディアが的確な情報をもたらし、市民が投票の際その情報をもとに決定を下すという考え方を酷評し、参加型民主主義という幻想を捨て、私心のないエリートに政策の討議や決定の殆どを任せるべきだというものであり、これに対して、ディーイは、教育により市民や有権者に懐疑的意識を植え付け、この意識の普及によりメディアや政府を人々のコントロールのもとに置くことが可能になるとの考えであった、というものだ。

 さて、現在の評価はどうか。リップマンとデューイが論争を始めた時点からそう進歩せず、前進するチャンスも生かせていないけれども、メディア・リテラシーの教育を制度化し、地方分権や参加型民主主義を導入することで、扇動されない国民を作っていくしかないと結論づけている。

 不正確ないし意図的な情報の洪水の中で、冷静に現実を見据え、報道内容を批判的に読み解くことの必要性が、実例を交えながら説かれており、今の時代に即応したメディア・リテラシー論の到達点だというのが読後の感想であった。

 ところで、現在、衆議院選挙を前にメディアの報道により政党支持率が激しく上下する現状を見て、我が国の有権者がどの程度冷静に事実認識ができているのか心許ない気がしてくる。テレビや新聞の報道振りを真に受け、会ったこともない人の評価を高めたり低くしたりする現状を目にする度に、真剣に我が国におけるメディア・リテラシー教育の必要性を感じる。少なくとも自分自身は、自らコントロールできないレベルの動きとその報道振りに一喜一憂することなく、地に足のついた現実的な活動をしていく以外にない。

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