「80回目の終戦の日を迎えて思うこと 」
〜日本的平和論に潜む陥穽〜

 毎年8月は、戦争と平和について語られる特別な月です。今年は戦後80年という節目を迎え、例年以上にその空気を強く感じています。私自身も、8月15日には長野県護国神社の平和安全県民祭、翌16日には旧松本陸軍墓地慰霊祭に氏子総代会長として参列いたしました。

 この時期、日本で語られる「平和」という言葉は、疑う余地のない絶対的な善として神聖視される傾向があります。対照的に「戦争」は、絶対悪として否定されます。個人の視点から見れば、それは当然の感情です。戦争によって家族を失うことは、誰にとっても耐え難い悲劇です。テレビドラマでは、戦争に巻き込まれた家族の悲嘆が描かれ、私も含め多くの人が深く感情移入します。8月15日に放映されたスタジオジブリのアニメ『火垂るの墓』では、節子の悲運に胸が締め付けられました。

 しかしながら、「戦争さえなければ平和である」という日本的な絶対平和論は、論理的にはすべての戦争を否定することになります。そうした視点でウクライナの現状を見たとき、私たちは複雑な思いに駆られます。ロシアの侵略に対し、ウクライナは自国を守るために戦っています。戦争を止めれば、ロシアによる全面占領が現実となり、占領下の人々がどのような扱いを受けるかは想像に難くありません。実際、ロシア占領地ではウクライナ人が徴兵され、ロシア兵として最前線に送られています。拉致された子どもたちが戦地に送り込まれる可能性も指摘されています。だからこそ、ウクライナの人々は侵略に抗し、戦う覚悟を持って戦争を遂行しているのです。それを一概に否定することはできません。

 日本の8月に漂う「祈り」の雰囲気に満ちた平和論は、今後、現実的な平和論へと進化していく必要があります。すなわち、平和をいかに守るか、戦争をいかに防ぐかという視点です。そこに、日本的平和論が抱える一種の陥穽を感じます。

 戦争と平和の問題は、国内だけで完結するものではなく、外部世界との関係の中で生じるものです。他国が平和を脅かす行動を取った場合、私たちはそれにどう向き合うのかを真剣に考えなければなりません。自国を守る意思と能力を明確に持ち、それを対外的に示すことで、軍事的攻勢を抑止し、平和を維持するという抑止論の理屈が成立します。ウクライナは、かつて核兵器を放棄し、極端な軍縮を行ったことで抑止力を失い、ロシアの侵略を招いたという歴史があります。私が現在推進している地下シェルター整備も、理不尽な攻撃に対抗する国家の意思を示し、抑止力を高めるための一つの方策と理解しています。日本的な純粋平和論という極端な言葉の呪縛から脱却し、建設的な議論へと進むことこそが、わが国と郷土の真の守りにつながると強く信じています。

 そのような思いの中で、8月15日の天皇陛下による戦没者追悼式でのお言葉――「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ」――の意味を深く噛みしめています。私は、縁あって長野県護国神社の総代会長を務めさせていただいております。戦争経験者や遺族の数が減少する中、全国の護国神社の運営は厳しさを増しています。しかし、長野県護国神社をはじめとする護国神社こそが、陛下のお言葉を体現し、戦争犠牲者の思いを後世に語り継ぐにふさわしい神聖な場所であると確信しています。その尊い営みを支える仕組みを構築することが、今の私たちに求められている責務です。戦後80年という節目の年にあたり、私はその責任を果たすべく、汗をかいてまいります。

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