国家公務員を辞め、衆議院議員に志を立てて以来16年間が経過しようとしています。元々、長野県の安曇野、松本地域で育ち、大学進学で上京、就職は地域社会に関係のある仕事ができるという観点で自治省(現在の総務省)に入省。自治省は、地方に赴任して研鑽を積むというのがキャリアアップのスタイルでした。私は、原爆の被災地である広島県への赴任を皮切りに、群馬県庁、茨城県庁と地方勤務経験を重ね、その間、霞が関で係長、課長補佐、課長、参事官と国の地方制度改革に携わってきました。最も思い出の深い仕事は、税務局課長補佐時代に、地方消費税の導入を主導したこと、消防庁防災課長時代に、有事法制の一環として国民保護法制の立案を当事者として担ったことでした。
知らないうちに、30年近い役人人生を重ねる中で、私は本当は何を目指して仕事をしているのかという根源的な思いを持ったこともありました。正直言って、霞が関は人材が豊富です。私がいなくなっても後に続く人材が沢山いました(少なくとも当時は)。一方、自分の生まれ故郷はどうなっているのか、とそのことが常に気になっていました。
私が、総務省消防庁防災課長の仕事を遣り甲斐を持ってこなしていた時の内閣府防災担当大臣は村井仁代議士でした。通産省出身の村井代議士は私の高校の先輩で、テキパキと仕事をこなす尊敬すべき先輩でした。一度、村井大臣に随行し、東京都立川市の政府の防災拠点を視察したことがありました。その時にも親しく声をおかけ頂いたことが記憶に残っています。
その後、何度かお話をする中で、務台君は国政に興味はないのかと水を向けられた機会がありました。当時は健在であった私の父親にも、地元の会合の際に村井代議士はそうした話を向けたという話を亡き父から聞いたことがあります。
その後、2005年の小泉総理による郵政選挙が行われる際に、某筋から、「務台さん長野県第2選挙区から手を挙げるつもりはないか」と打診がありました。ちょうど、私が安曇野市の自宅に帰省していた折でした。当時は、村井代議士が次の選挙に出ることが確実視されていた時期であり、まさか私が高校先輩で、防災の分野でお世話になっている村井代議士の対抗馬で出馬できるわけがないと即座に判断し、村井代議士にそうした打診があったことも伝えず断りました。
その後、村井代議士は、7期目の出馬を断念し、謂わば、刺客候補が天下り的に第2選挙区に降り立ち、自民党が郵政選挙で圧勝した選挙であったにもかかわらず、刺客候補が地元では受け入れられず、野党の代議士が圧勝するという結果になりました。
実は、その次の2009年の自民党が政権を失う選挙に私は出馬しました。その時には村井代議士は引退し、その村井代議士(その時には長野県知事に就任)が私を事実上の後継として支援して頂いた形で出馬しました。その理由は、地元に自民党代議士が不存在であることにより、地元の様々な課題が政府や与党に届いていない事態を解消してほしい、それを果たす人は、地元に対する愛着が人一倍深い務台さんをおいて他にいない、という殺し文句でした。当時、ロンドン勤務であった私のところに、小坂憲治代議士をはじめ地元の県議会議員の皆様から毎日のようにメールや電話が入っていました。最終的にそれを受け入れ、家族には非常に制約が課された念書を入れ、出馬の決断をしました。しかし、結果的に、麻生太郎総理下での2009年の総選挙は、非常に強い逆風の下で私は議席を得ることができませんでした。その負け具合は半端ではなく、相手候補が16万票、私は8万票とダブルスコアの負けでした。
その結果を受け、次にどうするのか、大いに悩みました。地元県議からは、自分自身と家族の為に諦めたほうが良いというアドバイスをいただきました。そして妻に入れた念書によれば、私はこれで政治の世界とは縁切りをすることになっていました。しかし、応援した後援会の皆様が、一回やっただけで諦めて撤退するということは、務台さんの地元の対する思い入れは本物ではないと言わざるを得ない、次を目指して、地べたをはいつくばって頑張るべきだと強い口調で諭されました。その主張を最も強くおっしゃったのは、松本市に所在する相澤病院理事長の相澤孝夫先生でした。私も、もとより、役所を辞して地元に戻った理由は、地元の窮状を何とかしたいとの思いでしたから、一回の敗戦で諦めるという気持ちはありませんでした。問題は妻との約束でした。結果的に妻との約束をほごにしたことが、その後の妻との別離に繋がったことは、選挙の恐ろしさを最初に味わった痛い経験となりました。
次を目指すといっても、簡単ではありません。村井代議士が引退し、落下傘候補が負けた結果、当時の第2選挙区は、自民党組織は壊滅的状態でした。市町村単位の自民党支部は小谷村に奇跡的に残存しているだけで、松本市や安曇野市ですら自民党支部が不存在になっていました。当然第2選挙区登録の自民党員は数えるほど。選挙用ポスターの掲示板も全くない状態。後援会組織はもとより無し。当時、大学を卒業して就職が定まっていなかった赤羽俊太郎という若者を誘って二人三脚で活動を始めたことが思い出です。車を買う金もないことから、赤羽君は、父親のお古のカローラを提供し、そのカローラで政治活動が始まりました。
ポスターを掲示する立て看板の設置、自民党市町村支部の設立、後援者の集まり、地域課題のとりまとめと霞が関へのつなぎといった仕事を、不撓不屈の精神で継続して来ました。それでも地元の風は厳しく、あらぬ風評にもとづく嫌がらせ行為も相次ぎ、せっかく設置したポスターが切り刻まれるという事件もありました。警察の捜査もあり、犯人が偶然検挙されるという結果もありましたが、犯人の老女の思い込みだからという配慮もあり、当時相談を持ち掛けた永田恒治弁護士のアドバイスもあり、この件を刑事事件としては取り上げないという経緯もありました。
2009年の最初の選挙から3年半、私の必死の地元行脚、自民党支部立ち上げ、後援会の組織化、地元課題を落選中ながら霞が関につなげた評価もあり、安倍晋三総裁の下での2012年の選挙では小選挙区での当選が果たせました。この時の喜びの大きさは、今でも覚えています。56歳での遅咲きの初当選は、地元の皆様にも大いなる希望をもたらしたと思います。私の初当選まで、7年に亘って松本市、安曇野市を中心とする第二選挙区に自民党代議士が居なかったのですから、この地域の政策課題に重大な遅れが生じていました。それを挽回するチャンスが訪れたのです。私もその期待を背負って、縦横無人に動き回りました。松本市の国道19号拡幅、安曇野市明科の国道19号歩道整備、松本糸魚川連絡道路事業促進、中部縦貫道建設促進、梓川・犀川堤防整備、上高地砂防事業促進、スノーリゾート環境整備などの滞っていた地元案件の整備促進に努めました。
新規プロジェクトも掘り起こし、長野道の筑北スマートインターは私が働きかけてから9年という超スピードで完成しました。代議士在任中に地元を襲った神城断層地震、千曲川水害の復旧には、大車輪で対応し、当時の安倍晋三総理のいち早い現地入りを実現した経緯もあります。
2期目の代議士として、内閣府防災担当政務官として岩手県の台風災害に対峙しましたが、その折に、達増岩手県時事よりも早く被災現場の岩泉町に入った際に、待たせた伊達町長との面会を急ぐあまり、役場に続く道の越水現場を渡る際に、車に積んでいた長靴に履き替える暇を惜しみ、防災靴のまま越水現場を渡ろうとし、その際に同行秘書官の背中に背負われた姿がテレビに収録され、後々大きな問題になったことは、返す返すも残念なことでした。しかし、この訪問を機に、岩泉町の要望に、政府の組織を挙げて対応を容易にしたことに関しては、その後、伊達岩泉町長が、私の選挙応援にいらしていただいた折にしかと語っていただきました。
私も地元長野県に対する思いが凝縮した政治活動の成果は、何といっても国民の祝日「山の日」を制定できたことです。「海の日」があって「山の日」がないのはおかしい、という地元の山岳関係者の声を受けて、谷垣禎一代議士に相談したところ、衛藤征士郎代議士にお声がけ頂き、超党派「山の日」制定議員連盟を設立、毎週の議員連盟の会合を重ね、一気呵成に「山の日」を16番目の国民の祝日にすることができました。今から思うと、なんと幸運な時期であったのか。実は、山の日制定後、御嶽山噴火災害が発生し、もしも、山の日制定前に噴火災害があったなら、山の日制定は未実現であったのではないかと思っている次第です。
山の日制定がきっかけとなり、現在は空前の登山ブームです。しかし、コロナ禍を経て、登山ブームにふさわしい登山環境が整備されているかという現状認識に立ち、登山環境整備基本法案の制定を議員連盟として準備してきているとことではありました。
消防団の活性化を図るために、松本市消防団などの皆様と議論をして、その成果を消防団基本法として実現したことも良い思い出です。日照時間の長い松本平に多くのサイクリストが集う現状に注目し、自転車振興基本法も私が中心となった議員連盟のPTで成立させたのも懐かしい思い出です。過疎地域、中山間地域の活性化を果たすため、新過疎法の制定、特定地域事業協同組合法の成立を話したことも私でなければできない仕事であったと自負しています。
代議士の仕事の合間の楽しみは、地元の小学生を国会議事堂に迎えることでした。小学校6年生の修学旅行、子ども達にとっては一生に一度の思い出です。極力、子ども達に同行し議事堂を案内する役割を果たしました。嬉しいことに、何年かたってから再会した子供たちが、「私は務台さんに議事堂を案内してもらいました」と言って再会を喜び合うことが少なからずあることです。
地元の課題に加え、代議士として国家的な課題に対応する仕事もしてまいりました。内閣府地方創生担当政務官、防災担当政務官、復興政務官、環境副大臣、内閣府原子力防災担当副大臣としてとして政府内の職責を果たすとともに、衆議院環境委員長として、国会の立場で法案審議、現地視察、諸外国との交流などにも経験を積んできました。そしてそのことが、地元を元気にする処方箋を考えるヒントともなってきました。
様々な議員連盟にも加入し、事務局長、幹事長といった立場で実務を取り仕切ってきました。法律を制定した「山の日」議員連盟以外にも、最低賃金一元化議員連盟、水道事業推進議員連盟、茅葺き文化伝承議員連盟、木質バイオマス振興議員連盟、ワサビ振興連盟といった政策課題ごとの議員連盟を動かしつつ、マルタ、ウクライナ、ソロモンといった諸外国との友好議員連盟の事務局長も務めて来ました。そして自民党政務調査会の中では、過疎対策特別委員会、災害対策特別委員会で事務局長を務めて来ました。
多くの諸先輩議員がひしめく自民党議員の中でも、中山間地の選挙区を抱える私でなければできない分野でしっかりと役割を果たしてきたつもりです。しかし、そうした仕事の実績とは別に、政局に関わる問題が生じると、地元有権者の意識は、その代議士が何をしてきて何をしようとしているか、ではなく、所属する政党ゆえにお灸をすえるかどうかという観点で判断がなされるきらいが無きにしも非ずです。
今回2024年の総選挙で、私としては、これまでの実績を踏まえ、東京一極集中を是正する具体的な手法として、私が温めている具体的な処方箋を提示し、これらの課題を実現するために私に強力な政治的立場を与えて頂きたいと有権者の皆様に訴えました。しかし結果は、最初に選挙に出馬し敗れた際の得票を大幅に下回る票しか獲得できずに、惨敗しました。代議士とは、実績や何をなすかという期待する対象というよりも、イメージやお灸をすえる相手として存在するのだとの思いを強くしました。その上で、これからどのような動きをしていくべきか、じっくりと考えていかなければなりません。
私としては、自分自身の培った政治的ネットワークを地元の為に生かしたいという強い思いはありますが、有権者の皆様に受け入れられるためには、後事を託せる若い世代を支えるという選択肢を求めることとしたところです。
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