「我が国の成熟化と官僚制の機能変化」

〜政治と官僚制の相互関係〜

 私は総務省の課長時代の二年ほど前、元大蔵省銀行局長で早稲田大学教授西村吉正氏の「官僚の生き様と経済社会思想」という講演を伺う機会があった。

 日本が福祉国家に向かう中で官僚制が果たしてきた役割、市場原理の浸透により官僚の果たす役割が大きく変化しつつあるという認識、そして政治家と官僚の役割の変遷について、ご自身の経験を踏まえ、明治以来の官僚制の制度的変遷を紐解きながら、縦横に解説していただいた。

 当時、私自身が、その変化の渦中におり、またその後、その講演内容が示唆した方向に身を投じることとなっただけに、ある意味で運命的な内容ともなった講演であった。

 西村教授によると、

 戦後復興期における官僚の自負は、当時の学生に共通した意識である、個別利益に奉仕することへの抵抗感、自分の人生は社会的に価値あるものに用いたいとの願望に裏付けられ、「金儲けなどに人生をかけるのはいかがなものか」といった雰囲気を受けたものであったとの解説であった。

 70年代半ばまでのイメージとしては、官僚は全体の利益を考えて新しいビジョンに挑戦し、政治家はそれに立ちはだかる個別利益の擁護者であるとの見方が一般的で、当時の官僚批判の言論界も、官僚批判はしても、「君たちしかいないので頑張れ」というエールが込められたものであったとの認識であった。

 そうした官僚に対する評価の社会的背景としては、
(1)敗戦の痛手から立ち直る過程で、日本もまだまだ貧しく、東西対立が厳しい中で、日本全体が力を合わせていかなければ日本は成り立っていかないとの緊張感が社会全体に満ちており、
(2)国家・官僚による調整の拠り所である相互扶助、公共性、平等な配分といった理念が抵抗無く受け入れられる社会的土壌が存在し、
(3)官僚自身も既得権者ではなく貧しい社会の一員であり、改革を進める側に立っているとの一体感があった、

と分析しておられた。「革新官僚」の伝統、農地改革、シャウプ税制などを押し進めたのは、その証拠であった。

 そのような官僚像のモデルが崩壊した理由を西村教授は次の3点を抜き出して分析された。
(1)平等思考の強い日本では、経済的報酬と社会的評価、つまり「カネと名誉」の配分には極めて敏感で、藤原正彦氏の「国家の品格」に書かれているように、尊敬された江戸の武士は、権力と教養はほぼ独占していたものの、まるっきり金がなかった。それと比較できるように、高度成長期の官僚の処遇は劣悪で、「金よりも仕事」だということで霞ヶ関には人材が集まった。国民もバランス感覚により官僚制の欠点を大目に見るところがあった。しかし70年代後半から官民格差是正や天下りによる生涯給与の調整で官僚の、「清く貧しく美しく」というビジネスモデルが崩れた。それが日本人の官僚への社会的支持基盤を喪失させた。
(2)競争試験を通じて国立大学や官僚機構が社会的流動性、社会階層入れ替え機能を高める機能を果たしてきたが、これらがその機能を喪失した。昔は貧しい家庭の子供でも勉強が出来れば官僚となり社会的リーダーとなることができた。特に東大法学部は社会階層入れ替え機能を果たしてきた。しかし、現在は東大の学生の親の所得は日本で最も高い水準であり、また地方出身者比率の激減により、官僚機構は既得権維持装置と見られ庶民の支持を喪失した。
(3)市場の失敗・政府の役割が強調された福祉国家実現までの時代は、官僚制は自らの存立意義を立証する必要性がなかった。今のような市場原理中心主義になってくると、官僚制はその有意義なことだけでなく、自らが「有害でないこと」の証明を求められる始末である。その結果、公務員の仕事が大変やりにくい時代となってしまった。

 西村教授の分析の慧眼は、官僚制が有効に機能した時代、つまり、戦後と高度成長時代は、むしろ歴史の偶然の中で生じた異例の時代であって、今の変化は普通の状態に戻っている過渡期に過ぎない、というものである。

 戦後から高度成長期に向かう頃は、GHQの間接統治システムの下、その後ろ盾を得た官僚が、戦後システムの構築を自由に行った、という見方である。党人派の政治家は公職追放でいなくなり、政治の世界も官僚出身の政治家が歴代の首相を務め、政治すらも官僚化していった、という認識だ。

 つまり、戦後、70年代までが「異例の官僚天国」で、現在の「官僚冬の時代」とは、政治家との綱引きの正常化過程という見立てである。

 西村教授は、公共性の担い手たる官僚の正統性について、明治時代の官僚制度発足時以降の議論を紐解き、実は今の官僚制を巡る議論は明治時代にもあった議論の蒸し返しなのであると、指摘されている。

 明治13年に大隈重信公が立憲政体樹立の意見書を提出し、選挙による多数党が内閣を組織するという政権交代論を提唱した折に、行政事務における経験知識の重要性を根拠に一般の官吏を政権交代の外に置くとしつつ、大臣、次官、局長は政務官としてポリティカルアポイントメントとすることを提言していたのだそうだ。

 この構想は、明治14年の政変により一旦は挫折したものの、明治31年の隈板内閣で実現した。しかしその結果は、無秩序な猟官、政党内閣への不信増大により崩壊した歴史があった。

 大隈の政務官構想を大隈モデルと呼ぶとすると、他方に、伊藤博文の伊藤モデルがある。伊藤博文は、ウィーン大学シュタイン教授の影響を受け、行政の政治化による混乱を避けるために、資格を重視したということだ。この考えに基づき、明治20年に官吏任用法が制定され、今日の官僚制の原点が定まった。

 情実人事の横行とそれがもたらす無能官吏の跋扈、俸給増加による財政の圧迫を避け、人材を政府に集めるために官吏任用法が制定された。

 事実、これにより、従来は官途に熱心でなく自由民権運動に身を投じることの多かった学士の意識に変化が生じていったとのことである。

 そして明治末期から大正期にかけ政党内閣が本格化する中で、政と官との関係で起きたことは、政党人が官庁に入り込むるのではなく、現職官僚の政党参加、という動きであったとのことだ。

 さて、西村教授は、元内閣官房副長官の古川貞二郎氏の「政治主導と行政」という論文を引用し、その視点の解説をしておられる。古川氏は、「(1)政治主導が声高に叫ばれるが政と官との関係についていささか理解に苦しむ。行政官というだけで敵と見なす風潮は明らかに間違っている。(2)政にとって官は敵ではなく、パートナーである。相互信頼の上に立って、それぞれの役割分担に照らし、政は官を使いこなせばよい。」と述べておられるが、西村教授は、この「政が官を使いこなす」、という点を捉え、古川論が大隈の政務官構想に近いのではないか、と感想をお述べであった。

 偶々、講演の日の夕方、私が古川氏とお会いする機会があったのでこの点を御本人に確認すると、「私は、政が官の組織に入り込んでくることはむしろ反対だ。官の組織を政が官と独立した立場で使いこなすべきだ。でないと、猟官の弊害が絶対に出てくる。」とのことであり、むしろ、伊藤モデルに近い考えであることが確認できた。

 それで、ではどうするか、ということになる。西村教授によると、東大法学部の学生の最人気就職先は、モルガンスタンレーやゴールドマンサックスなどの外資系なのだそうだ。現にそこで働いている若手社員は、往時の若手官僚を彷彿とさせる働きぶりで、不眠不休なのだそうだ。個別利益を求めることがむしろよいことだと信じて仕事をしているのだそうだ。そしてその処遇は破格によい。

 市場原理の元での官僚の役割は、主体的にビジョンを策定する機能を発揮しにくいのが論理必然だ。市場の失敗を後処理し、政策のほころびを繕う役回りが一般的になっている。そして、人口減少社会・低成長経済のもとでの社会政策は、勢い、高齢者主体の既得権者に厚く配分された財政資源を奪わなくては実現できない。そしてそれは恐らく政治機能でしか果たし得ない役割である。恐らく政治でも無理かも知れない。

 西村教授の最後の締めは、「だから従う?」、それとも「だから出る?」であった。私の場合は、結果として後者になった感がある。

 とにかく、この様な世の中の流れの中で、政治と官僚制度の相互関係が議論の俎上に上っているということだけは事実である。これはひょっとしたら日本が先進国になったということなのかもしれない。しかし、ただでさえ有能な人材確保が厳しくなっている中で、政治が更に官僚の誇りを失わせるような行動に近視眼的に駆り立てられているとしたら大変残念なことであり、歴史の大きな流れを見据えて慧眼に満ちた議論を行い、日本の将来の行く末に思いを馳せながらの思考をしていく必要がある。

 私の目には、少なくとも政治家の資質を高める議論とともに政治と官僚制の相互関係を論じないと建設的な議論ができないように思える。今の政治のレベルのままで官僚機能を損ねることは、国家機能の低下に繋がることは必定である。

 この議論は、少なくとも、皮相な人気取りの観念に基づきエイヤーで片づけられる課題では決してない。将来の国家の浮沈がかかっている。

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