9月27日に営まれた安倍晋三元総理の国葬に参列させて頂きました。吉田茂元首相以来55年ぶりの国葬であり、参議院選挙の大詰めの7月8日に銃弾に倒れ非業の死を迎えた安倍氏のご冥福をお祈りする多くの地元の皆様に代わって参列させて頂きました。国の内外から4183名の参列者を迎えて日本武道館で行われた国葬は、5時間にも亘る長時間のお別れの式で派手な演出も荘厳な形式美も見られないものの、関係者の気持ちのこもった感動の儀式だと感じました。会場の日本武道館の外にも献花台が設けられ、一般献花は2万5889人に達したとの政府の発表がありました。全国の各地でも献花台が設けられ、私の自民党支部事務所に設置した献花台にも数多くの献花がありました。これらを合わせると、おびただしい数の国民の皆様が心から弔意を表明されているものと考えられます。
国会周辺や会場近くでは国葬反対の集会やデモもありましたが、参加者は一般市民というよりも、いわゆる活動家や野党の政党関係者が多いように感じたのは私だけではないように思います。その模様を形容するのに、マスコミが「市民団体」の反対が多いと報道していたのには、首を傾げざるを得ませんし、主催者発表の参集人数1万5千人というのも警察の発表では500人程度との報道もあります。私の実感では、サイレントマジョリティーは、国葬としての位置づけに対する賛否はあれども、民主主義に対するテロに斃れた元首相を静かに見送りたいとの思いを懐く国民が圧倒的に多いように思われます。
国際的な評価の高さに対して、国内的評価が割れているとされる安倍元総理ですが、少なくとも、安倍元総理の私心の無さに関しては、もっと多くの国民が理解して欲しいと思います。この点については、国葬における菅前総理の追悼の言葉が感動的でした。国の誇りを高めるために腐心した安倍元総理の姿を様々なエピソードを交えて語って頂きました。同じテロに斃れた盟友伊藤博文を追悼した山形有朋作の「語りあいて尽くしし人は先立ちぬ 今より後の世を如何にせむ」との短歌を引用した追悼には、期せずして拍手が起きました。国葬反対の集会に参加した皆様には、イデオロギーで否定的な見方で決め付けるのではなく是非とも菅義偉氏の追悼の言葉を読んで頂きたいと感じた次第です。
ところで、国葬に参列するために諸外国から多くの要人が訪日しました。私もいくつかの友好議員連盟に参加しており、マルタ副首相、ラオス副首相、ラオス人民革命党中央組織委員長、スリランカ大統領、ソロモン諸島副首相、デンマーク国会議長といった要人との会談に参加しました。国葬参加の印象として共通していた点は、国葬に参加して安倍元総理の国際貢献の大きさ、それぞれの国の課題を日本の要路に伝える機会を得られたことの評価、そして日本という国の素晴らしさに改めて感じ入ったと述べておられました。今回の国葬参加で様々な人的ネットワークができたことを高く評価して頂きました。まさに、「死せる孔明生ける仲達を走らす」という三国志の故事を現代に再現したように感じられました。私もその一角を役割を果たせたことに政治家としてのやりがいを覚えました。
外国との友好議員連盟の会合に参加して感じたのは、国葬を欠席した野党の皆様も諸外国の要人を迎える場に参加していましたが、わざわざ国葬に来日した要人に対して、肝心の日本の国会議員が国葬に参加することなく歓迎行事に参加していることに居心地の悪さを覚えている空気を感じました。国葬に欠席した野党の議員は、外国の要人に、「こんな理不尽な国葬に参加することはやめて欲しい」と言うのが論理的には一貫するのでしょうが、流石にそこまでは言えなかったようです。
本当は、岸田総理が国葬を決断する際に、予め与野党の国会の要路にしっかりと意思を伝えていれば、こうした混乱は生じなかったのかもしれないと考えると、大変残念に感じられます。ちょっとした気遣いが大きな違いを生じることに今更ながら政治の手続きの難しさを覚えますが、自らにもこの教訓を言い聞かせて参りたいと思います。
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