「安曇野水土記」

〜水不足の安曇野の水利の歴史〜

 水利を中心とした安曇野の風土の形成をこの地に暮らした農民達が如何に作り上げてきたかという観点から、歴史を振り返り解説した冊子がある。関東農政局安曇野農業水利事業所が編集した「安曇野水土記」という20頁ほどの小冊子である。

 私も高校生まで安曇野に暮らし、33年ぶりに故郷に帰ってきたが、この地域の開発の歴史というものには、いささか疎かったというのが正直なところだ。この冊子を熟読し、水利と切っても切り離せない安曇野の発展の歴史をつぶさに知ることができた。

 「安曇野」というと、今日では歳時記の詩趣を思わせる懐かしい地名として全国ブランドとなっている。もともとは、堀金村出身の臼井吉見氏の長編小説「安曇野」が安曇野を有名にした経緯はあるが、今ではこの小説以上に安曇野は人々の脳裏に定着している。

 しかし、実は、この詩的イメージとは裏腹に、地理的条件は厳しいところだったというのが現実であった。今では長野県屈指の穀倉地帯となっていますが、実は恵まれた地形や風土がそれをもたらしたのではなく、この地に暮らした農民達が、自らの手と足で、水利を巡らし、この地の水土を作ってきたのである。

 安曇野は、扇状地で、尻無川(しりなしがわ)が見られるところとして有名である。北アルプスの水が、谷間の水を幾筋か集めて安曇野に流れ下るものの平野部に出たとたんに流れが忽然と姿を消し、それが扇状地の先端部で、再び湧水として姿を見せることになっている。安曇野はこの湧水をワサビ栽培に活用している。

 その意味するところは、北アルプスという水の宝庫を持ちながら、水田や畑を作ろうにも、「地表に水がない」というのが安曇野だったのだ。

 その課題を解決するために、「川から水路を引く」、ということが、この地域の成り立ちを支える上で決定的に重要な営みだったのだ。先人達は、安曇野を毛細血管のように張り巡らせる水路を営々と造り上げ、今日に至っている。水路に沿って水田が出来、水田集落も出来る。その繰り返しで安曇野は発展し、今日を迎えた。安曇野ではこの水路のことを堰(せぎ)と呼んでいる。私の家の前にも新田堰という水路があり、本家の家の脇には、温堰(ぬるせぎ)が流れている。

 「安曇野水土記」によると、安曇野の農地1ヘクタールを潤す幹線水路の長さは、平均で124メートルあり、全国の倍、長野県全体の1.2倍の長さがあるのだそうだ。安曇野は水路の密集盆地だったのだ。

 水路には縦堰と横堰があり、斜面をまっすぐに降りてくる水路が縦堰、これに対して、等高線と並行にスキーの斜滑降のように斜面を横切る水路が横堰と呼ばれるのだそうだ。安曇野には、縦堰に加えて横堰があり、双方の水路が直角に交わって交差している。私の家の前を流れている新田堰も横堰であり、木曽山中から源を発する奈良井川の水を横堰として安曇野に持ってきている。本来ならば梓川からの取水が便利なのだが、梓川は上流部の取水により水量が少なく、梓川を横断して水量豊富な隣の奈良井川の水を引いてきている。安曇野は、北アルプスだけではなく、中央アルプス(木曽)の水も利用しているのだ。

 その代表例が拾ヵ堰(じゅっかせぎ)である。穂高町一帯の原野に如何に水利を引くかを検討し、文化13年(1816)、奈良井川からの取水により、この大複合扇状地の中央を570メートルの等高線に沿って横切り、約1,000ヘクタールの水田を潤すという安曇野一の大水路が開設された。長さ15キロ、勾配1/3000。近代的水準器のない時代の手堀りの水路だった。着工から3ヶ月で完成。10ヵ村を潤すので拾ヵ堰と名付けられた。等々力孫一郎という庄屋が、26年間に亘って土地を詳細に調べ、松本藩への交渉を成立させたのだそうだ。青木新兵衛という松本藩土木掛がこのプロジェクトを理解し推進役となったのだそうだ。

 今では、拾ヵ堰は、水路周辺の景観が美しく、安曇野らしい景観を作っている。水路の近くに越してきた新住民の方たちもその景観を愛し、環境保全運動を行ってきている。ただし、これらの水路開設の歴史を紐解くとき、これは与えられたものではなく、人工的に作り出してきたものであり、将来に亘ってこの地域発展の農業基盤であることを忘れてはならない。人知れず水路開設の労苦に耐えてきた先人のことを深く学んだ上での環境保全運動であって欲しいと思う。

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