〜地域社会の営みそのものの根源にある稲作文化〜
松本平の春の例大祭を順に巡る中で、改めてこの地域が農業と計り知れない関わりの中でその営みを継続していることを知る。
一緒に春の祭りを巡っている事務所の若手秘書のA君が、「地域を巡ると農業の持つ意味の大きさを改めて感じる」と、その年齢にも拘わらずふと漏らした言葉が心の琴線に響いた。彼も実は先祖伝来の水田を引き継ぐ立場にある。
当たり前のことであるが、農村の祭事などの諸行事は稲作の営みとピッタリと結びついている。稲作の年間スケジュールは予め精密に決められている。天候との戦いでもあり、一瞬一瞬を注意深くこなしていかなければならない。それでも失敗はあり、神に祈る気持ちが高まるのもよく分かる。科学技術で世界の営みが全て管理できるという思想とは相当異なるように思われる。
そのような中で、TPP議論への民主党政権の対応は、前原誠司元外相の言葉(「日本のGDPにおける第一次産業の割合は1.5%。1.5%を守るためには98.5%のかなりの部分が犠牲になっているのではないか」)に代表されるように、農業を守ることへの無理解が目立つように思う。
農村社会に暮らしていると、地域における農業の重みは、GDPの大きさだけでは到底図れないものがあることを知る機会の連続である。地域社会の歳時記がそのまま農業の営みに合わせたものであることは既に述べたが、先祖伝来引き継いできた農業用水利などのインフラの価値はGDPには換算されないものの、実はその価値は非常に大きい(注)。
目先の利益の為に日本の農業を壊滅させるような政策を打ってはいけない。日本農業の壊滅は、地域社会、地域コミュニティーの崩壊、そして日本の伝統行事のお祭りが廃れることにもつながる。
考えてみるといい。仮に日本の輸出産業の生き残りを図るために関税を例外なくゼロにする対応が採られたらどうなるか。農業は国際競争力に耐えられず壊滅する可能性がある。しかしそれで救われたはずの日本の輸出産業は本当に永続的に救われるのか。
そんなことは全くあり得ない。仮に今以上の円高が更に増進すると、関税の多寡に関わりなく、日本の輸出産業は悲鳴を上げ、海外に進出するであろう。その場合に、日本に残るものは、空洞化した輸出産業と壊滅した農業、ということになりかねない。ごく最近、米国ではTPPの議論を見据え、日本向けにコメの短粒種の作付面積を増やすとの報道に接した。米国の作付は長粒種が多いのでコメの関税がゼロになっても日本の米は大丈夫との見方があるが、この米国農家のこうした戦略的な兆候から見てもこうした国内の見方は甘いと言わざるを得ない。
どの様な世の中を目指すにせよ、国内農業をしっかりと維持継続できるような農業政策、地域政策が必要である。これはイデオロギーを超越した普遍的な価値である。
東日本大震災以降、農業に従事し土を相手に体を動かすことの意義を多くの農業従事者が再認識し始めているように思われる。少し前まで、「農業はもう駄目だ」、と伏目がちに語っていた若手農業者が、弾けるばかりの絵顔で自分の作付する農産物について熱く語る場面に接する機会が多くなっている。過日も長野県山形村の長いも農家の若手農業後継者からそうした意識を感じ取れる発言を伺い頼もしく思った。サラリーマンを引退したら、親父の後を次いで米と野菜をやるんだと、楽しみにしている40代50代の人達を私は多く知っている。
現在の民主党政権の「言うだけで何の責任を取らない」人達に、日本農業、そして将来の日本の国の基本の方向づけをさせてはならない。
(注)
農業用水利の価値に関する「安曇野水土記」と題するブログ
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