〜折々の家族の為の行事の意義〜
施設に入所している父親が今年88歳の米寿を迎えることから、今のうちにきちんとしたお祝いの会を行っておきたいとの思いから、年度が改まった日に米寿の会を催行した。地元に在住の近親者や父親の教え子に声をかけ都合の付く皆さんにお集まりいただくことができた。
父親は10年ほど前に体調を崩してから入退院を繰り返すようになり、今は家の近くの介護施設にお世話になっている。毎日が単調な生活の為に、しきりに家に戻りたがるのをなんとかなだめながら今日まで至っている。
思えば、私は誠に親不孝者で、これまで両親を含めた折々の家族の為の行事というものに意を払ってこなかった。仕事第一主義で、家族は自分の仕事の為に奉仕するのは当然であるような振る舞いをしてきた。結果として、勤務地を変わる度に頻繁に引っ越しを繰り返した公務員の現職時代、そして政治を目指した活動を始め今日に至るまで、身の回りの人を、言ってみれば「自分自身の行動を基軸に振り回してきた」感が強い。
これを周りにいる人たちから見ると、相談を受け転勤が決まった訳でもなく、政治活動を始めるのも相談を受けた訳ではなく、いわば一方的に私の判断の結果に振り回されている、と思いを懐かれても反論はできない。
そうこうする中で、ある早起き会の会合の折に「親孝行の薦め」を輪読する機会があった。その折の示唆もあり、遅まきながら、ようやく、特に親に関わる折々の慶事については、日頃の罪滅ぼしを兼ねてきちんと行っておかねばらないとの、思いを抱くに至った。
今回、父親の米寿の祝いに集って頂いた皆さまは、上は95歳の父親の実兄から下は23歳の孫娘までの各世代にまたがる皆さまであった。一人ひとりの皆さまから父親との思い出や激励の言葉を賜った。
記憶力が衰えた父親は、残念ながら参加して頂いた多くの皆さまのことを思い出せない状態であったが、自分自身がお祝いの主役であることは理解できていたようであった。最後に、聞き取れない内容ながらも絞り出した父親の声は、感謝の気持ちに溢れたものであり、皆感動を以って聞き入った。
年を取って記憶に残っているのは、子供の頃の思い出や特に苦労した思いであることが多いようである。父親の最大の試練はシベリア抑留であったと思う。終戦直前の昭和20年7月に召集令状を受けて学徒出陣。しかしほどなく敗戦。1カ月後に武装解除、ソ連軍の監視下に入り、貨車に詰め込まれてシベリアへ抑留。強制労働、栄養失調、極寒下の肺炎、多くの友人の死を見つめながら生きながらえ、1年11カ月の抑留を経て昭和22年6月に舞鶴に帰国。「懐かしの故郷、北アルプス、白壁のわが家。母がまぶたを押さえて無言で玄関先に立っていた」というのが父親が記した故郷帰還時の情景であった(注)。
自ら命拾いした命だけに、人生を有意義に生きたいとの思いが人並み以上に強かったのかもしれない。人にへつらうことなく、「筋を通して」生きて来たとの思いが強い様である。
普段、顧みられないことに寂しい思いをしているに違いない父親に皆の関心を集中し、その長寿を寿ぐ機会は、父親の更なる生きる意欲を奮いたたせることになったことを確信した。これからは、遅ればせながらの親孝行を兼ねて、折々に行うべき家族の慶事の祝いはきちんとやらなければならないと自らに言い聞かせた。
(注)父親のシベリア抑留体験については、以下のリンク参照。
https://www.mutai-shunsuke.jp/policy46.html
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