「地域で埋もれている山城の歴史」

〜松本市の「埴原城」を探訪して〜

 以前、松本市の中山地区にある中世の山城の遺構である埴原(ハイバラ)城を探訪する機会があった。信州大学教授でこの分野の研究の第一人者である笹本正治氏の先導で、小宮山淳信州大学学長、松本市立考古博物館の竹内靖長主査、直井雅尚主査、それに笹本先生の教室の学生の皆様とご一緒した。

 急峻な山城の遺構なので、登山靴を履きリュックを背負ってたいで立ちで、標高785mの麓の蓮華寺に車を止め、標高1,000mの山城の本丸跡地まで片道約1時間半の山登りであった。笹本教授の関係者が実際に「縄張り」を行い作成した山城の鳥瞰的な見取り図を頼りの探索になった。

 山の尾根伝いに「くるわ」と呼ばれる土塁の陣地が幾重にも重なり、攻めてくる敵を「くるわ」の上から迎撃する仕掛けが施されている。狭い道は「くるわ」を巡る形になっており、「くるわ」からは丸見えで迎撃されやすい形になっている。

 「くるわ」と「くるわ」の間は「切岸」と呼ばれる土で作った段差がきつく、敵が攻め上がるのが非常に難しくなっているつくりである。尾根伝いには尾根筋と垂直に「堀切」が切られ、尾根に人工的なアップダウンをつけている。本丸の手前には「水場」の跡があり、岩で囲われた穴からは水が浸みだしていた。

 本丸には石垣が築かれていた。松本城にある「穴太積」(アノウヅミ)と呼ばれる技術が導入される前の土着の石積みで、簡単な石積みであった。大きな岩が「岩座」(イワクラ)として本丸に残っていた。この岩座は、神の加護を意識した当時の考え方を伝えているのだそうだ。

 埴原城は、しかし、単に登るだけでは、やけにアップダウンのある山だなあと思う程度である。笹本教授の話を聞きながら登ったことで、遺構の意味がはじめて分かった。

 笹本教授の話では、「地形と自然と歴史を知らないと歴史的遺構の持つ意味は分からない」のだそうだ。例えば、地滑り地域を「切岸」と見間違うこともあり得ないわけではないのだそうだ。ちょうどCTスキャンでの診断の仕方が名医と平凡な医師では異なってくるようなものかなあと、医師であられる小宮山学長と話をした。

 笹本教授の説では、埴原城は、武田氏が滅亡し、豊臣政権が天下統一を果たすまでの間、天正10年(1582年)から18年(1590年)までの間に、小笠原氏によって築城されたのではないかとの見立てである。戦国の再末期、信州の中信地域は、徳川氏をバックにした小笠原氏、上杉氏、豊臣氏をバックにした木曽氏、そして(後)北条氏の4大勢力がこの地の覇権を競い、守護の小笠原氏は、権力の空白という異常な事態を前に、いざというときに備えた最後の砦をこの山城に築いたのではないかというのが笹本説であった。

 難攻不落の山城だが、実際に闘いの場となることは無かったのではないかとの説が笹本説である。松本市の教育委員会では、「乾の砦」が天文19年(1550年)武田の手に落ちた史事の「乾の砦」がこの山城ではないかとの説に基づき、説明の立て看板にはその旨が書かれていたが、笹本教授は間違いだと断言しておられた。小笠原長時が当時この様な要害を築城できたのであれば、容易に落ちることはなかったはずだ、と。

 ともかく、当時の資料がないので、想像を逞しくして、歴史を辿ることはロマンをかき立てる。笹本教授の教え子の信州大学の学生は、「笹本先生は山城に来ると生き生きとしてくるね」と笑いながら身軽に山を駆けめぐっていた。先生の教え宜しく、山道を単に辿るのではなく、どうやったら「岸切」を抜けられるのか、ということを考えるためにも、道無き道を縦横に巡っていた。その仕草がまるで忍者のようであり、若者のエネルギーに感服した。

 本丸跡で、岩座に腰をかけ、おにぎりを食べたが、とても美味しい昼食であった。記念写真も晴れやかなものであった。

 ところで、、現在の松本城は、石川数正が、小笠原氏、武田信玄、再度小笠原氏を経て松本城主となった際に城の大改築に着手したものが引き継がれているが、城の歴史からいうと、松本城の前の城の形態が埴原城などの一連の山城なのだそうだ。

 松本というと松本城しか思い浮かばないのが普通の人であるが、それ以前の中世の山城にこそ、生きるか死ぬかという戦国時代のギリギリの戦乱の歴史が染みこんでいるというのが、笹本先生の主張である。こうした歴史をもっと深く掘り起こせば、松本の歴史はより奥深いものとなるはずだ、と。笹本教授の先導による今回の山城探訪は、そのことを私たちにも理解させようという趣旨に基づく最高級ナビゲーター付きの探訪であった。

 松本地域の山城には、埴原城の他に林城、桐原城、山家(ヤマベ)城などがあるとのことだ。その中で保存状態がよいのが埴原城なのだそうだ。しかし、今回埴原城跡に行って、歴史的山道が削り取られているのがやけに目についた。山頂に行くと、その理由が分かった。山頂から間伐した木材を山道を使って降ろしているのだが、木を降ろしやすくするために、カーブをカットしていたのだ。

 この機会に、林城も探訪したが、本丸まで車道を作ったために、「堀切」、「切岸」などが埋められたり、途中で切られたりして、史跡の価値がだいぶ減じられてしまったとの笹本先生の話であった。それでも、林城から見る松本及び北アルプスの風景は絶景である。この地域を睥睨する気分になる。この山を、小笠原氏の主城と定めた気持ちが伝わってくるように思われる。

 ところで、山城がある中山の地は、午伏寺断層で有名なところだ。午伏寺断層は糸魚川静岡構造線を代表する断層として、著名である。天平時代に大地震があって以来、大地震がないので、直下型地震の発生確率が日本で最も高いとされているところである。

 皮肉なことに、この地域に、中世の城の遺構があるのだが、この中山には、古墳時代の貴重な遺跡も沢山ある。山から戻って松本市の考古博物館に立ち寄ったが、第一級の出土品がよく整理されて並んでいた。ここでも笹本教授の蘊蓄を伺えた。

 弘法山古墳の全景も初めてみることが出来た。「前方後方墳」という前も後ろも四角の形なのだそうで、「前方後円墳」の前の時代の古墳なのだそうだ。

 さて、この中世の山城に関する研究の蓄積はまだまだ不足している。学問の世界の貢献が求められているのはもとよりだが、行政の側も注視すべき対象であるように思える。地域の誇りを再発掘し、文化の香り高い地域振興を図るためには、埋もれている地域の歴史を紐解くことが必要である。

 市の文化財課の竹内、直井ご両人も、笹本教授の高級解説付き探訪は大いに刺激になったようであった。文化財課の仕事の多くは、市内の再開発に伴う受動的な遺跡調査で、遺跡調査費用を安くするようにとの開発事業者からの要請を受けて日々の仕事に四苦八苦しているのが現状だ、という実態も伺えたが、行革・人員削減の嵐の中でも、何とか工夫をしながら地域の歴史文化に目を向ける取り組みをしっかりやって欲しいと感じた次第である。

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