「地震に強い松本城の再発見」

〜地震にびくともしなかった松本城の秘められた耐震構造〜

 2011年6月30日に松本市を襲った最大震度5強の直下型地震により、国宝に指定されている松本城の天守閣にひびが入ったとの報道が全国を駆け巡った。そのために、松本城が大きく被災したと誤解され、松本を訪れる観光客が減り、お城の入場者数が減るという事態に発展した。

 松本城管理事務所の大石幹也所長は、その風評を払いのけるべく一計を案じ、今回の地震に十二分に耐えた松本城の堅牢性、耐震性をこの際アピールする企画を計画し、そのツアーを7月上旬に実施した。

 建築の専門家である大石所長は、私の高校同期である。物静かで慎重な大石所長は、考える視点が的確であると常々感じていたが、今回の松本城の耐震性をアピールする「堅牢!松本城ツアー」のアイデアは、「被害」を逆手に取り、松本城をプロ好みの側面から検証しそれを観光振興に結び付けるという発想であり、感服した。

 「これだけ古く大きな建物が地震に耐えられる先人の工夫を多くの人に知ってもらいたい」との大石所長の呼び掛けに応じ、私も思わずそのツアーに参加した。私の参加したツアーでは、歴史の先生である青木教司研究員から、城の隅々を懇切丁寧に解説して頂いた。城の耐震性に焦点を当て、石垣や柱、土壁などの特徴を詳しく紹介いただいた。

 今回の地震では乾小天守の内壁と大天守に僅かにひびが走ったものの、ひびは漆喰壁の表面部分だけで構造的には問題なしとされた。そして、城全体はしなやかに地震の力を上手く逃がす構造になっていることが今回の地震に耐えた秘訣であるという話を伺った。

 松本城は石垣をまっすぐ積めなかったために天守台が不正形な糸巻型になっており、それが地震の圧力を外に逃がす機能を果たしたとの解説は現代のアーチ式ダムの構造の考え方にもつながる理屈だ。

 天守は2階のブロックを3つ重ねた6階建てであり、階毎に通柱を通し、秀吉の時代、地震で倒壊した伏見城の轍を踏まぬ知恵が施されているとの解説も新鮮であった。

 松本城は、4つの建物を複合結合させた天守閣構造になっており、それを自然の木を梁として繋ぎ、4つの建物が互いに支え合う効果もあるとのこと。私が、「危機に際し家族がお互いに支え合うようなものでしょうか」と聞くと、青木研究員は、「良いたとえですね」と笑って答えて頂いた。なお、風雪を耐え抜く過程で曲がって成長した木は、板や柱の材としては使い物にならないが、梁として使うと真っ直ぐに成長した木材にはない粘りを出すとのことで、これも目から鱗の話。

 城の柱と梁の連結部には、ほぞ(くさび)で固定している部分があり、強い圧力が加わったときには、このほぞが外れて力を逃がす工夫も施されている。全てをがっちりと固定するのではなく、最後まで頑張る部分と緩める部分を使い分けているところが奥深い。

 近世の松本城には、現代の技巧も加えられている。松本城の昭和の大修理の際に、漆喰壁の表面は近世の外観を保つように復元したのにあわせて、城の内部には鉄筋を入れて補強したとのことであった。筋交いを施し、ボルトによる補強も行っている。そのため、創建当時に比べれば数段耐震性能が上がっている。

 さて、そうは言っても、これで万全だと過信しているわけではない。松本城の天守の天井には二十六夜神の神棚が安置されている。人間の知恵を駆使しても足りないところはある。その限界を知って、最後は神にご加護を祈るという、謙虚な姿勢もまた、先人に学ぶべき知恵である。

 防災に関しての、理念、技術そして謙虚さを松本城の耐震ツアーから学ぶことが出来た。

 今回の松本の地震がなければ到底知り得なかった松本城の耐震性を垣間見る機会に恵まれ、改めて先人の知恵の深さに思いを致した。今回の地震は、これまで以上の愛着を松本城に感じる機会を与えてくれた。これも「災い転じて福となす」の一例かもしれない。


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