「大震災体験を若い世代が実体験する意義」

〜大学生が大挙して被災地支援を行う提案〜

 東京都千代田区有楽町の宝くじ売り場の近くで、地下鉄銀座線の入り口のすぐ脇に人知れず佇むモニュメントがある。目を凝らしてみると、「不意の地震に不断の用意」という草書体の題字とともに、槍を持った勇者の銅像である。擦れた刻印を読むと、関東大震災から10年経って、全国から寄付を集めモニュメントを建てたと書かれている。今年は関東大震災から88周年の年であり、その年に東日本大震災という関東大震災を大きく凌ぐ、わが国の歴史上最大級の自然災害が起きた。

 関東大震災は、大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源として発生したマグニチュード7.9の巨大地震で、関東地域全域と静岡・山梨両県(1府9県)に甚大な災害をもたらした。死者・行方不明者は10万人を超え(14万2,000人との推計も)、建物被害は、焼失家屋44.7万戸、全半壊25.4万戸を数え、被害総額は当時のGDPの4割を超える55億円から65億円にのぼったとされる。関東大震災の死者のうち87%は火災で亡くなり、これは、人口密集地の下町を中心に当時の東京市の約半分を焼き尽くす大火災が発生したことによる。地震の発生した9月1日は暦の上で二百十日に当たり、台風シーズンを迎える時期で、ちょうど関東地方は台風の余波で風が強く、そのことが火災を大きく広げた原因であった。さらに発災時刻は昼時で、昼食準備で火をよく使う時刻であった。

 この関東大震災は、様々な教訓を現代に遺している。平成7年の阪神・淡路大震災の際に、ボランティアが活動し、ボランティア元年と言われ始めたことは我々の記憶に新しい。政府でもその後、1月17日の前後をボランティア週間として、ボランティア活動を慫慂する行事を行うに至っている。現在では災害対策基本法も改正し、ボランティアの活動環境を整備することを国・地方公共団体の責務として課すに至っているが、関東大震災に詳しい鈴木淳東大文学部教授によると、関東大震災時にも、ボランティア活動が熱心に行われたとのことである。

 この大震災直後には、全国から、青年団という形で有志が東京に駆けつけ、被災者救護などに尽力した。東京帝国大学の学生は、上野の山に避難した多数の被災者支援のために、学生服を着て仮設便所の穴掘りなどに携わり、それを見た周囲の人も、「帝大生が穴掘りをしているのであるから我々も参加せざるべからず」と、大いにボランティア活動が盛り上がった。

 震災の火災の中で、周囲をすべて焼かれながら必死の防火活動の結果かろうじて消失を免れて焼け残った地域があった。それは浅草伝法院観音堂と神田和泉町・平河町の2カ所であり、浅草の防御は、消防署に加え、消防組員の指導の下、周囲の民家の破壊に加え、住民を2列に並べて池の水をバケツで送らせ火を防ぎ、神田和泉町・平河町は、全く消防隊の援助を得ずに、住民の破壊消防やバケツ類の手送りによる注水、民間会社にあったガソリンポンプによる下水水利を得ての放水、により類火を免れた。

 この大災害の歴史から見ても分かるように、大災害時には、日本全国から、「奉仕の精神」に満ちた人々が駆けつけるものであるということと、大災害時における住民組織の防災力が如何に重要なものか、ということは、時代を超えて真実なのである。

 関東大震災、阪神・淡路大震災、そして今回の東日本大震災を見るまでもなく、自然災害、事故災害・人的災害を問わず、巨大災害は、一定の確率で必ず生じるものである。特に日本は繰り返し大災害に見舞われる宿命にある。

 関東大震災時には「天譴(てんけん)論争」が世間を賑わせた。日本人には災害に関して諦めの意識が古来よりあり、人間の咎を天が罰したといういわゆる天譴説の是非の議論である。これに対して、菊池寛は「地震でなくなったのはブルジョアよりもプロレタリアートが多いので、天譴論はおかしい」、芥川龍之介も、「天遣論が正しいのであれば、渋沢栄一氏などは先ず先に罰せられなければおかしい」などと述べていた。東日本大震災で、石原都知事が、「天罰」という言葉を使い、直ちにそれを謝罪撤回したことも、歴史は繰り返す、である。

 ところで、防災にどこまでエネルギーを注ぐべきかという議論は絶えない。防災論は常に、金をかけて空振りでもよしとするか、あるいは、準備しないで大きな被害に遭うか、のせめぎ合いの様相が見え隠れする。

 東日本大震災においても、津波防波堤を村長の思い入れで15メートルに設定したために住民に津波の被害が及ばなかった村があると思えば、東京電力のように、福島第一原子力発電所の津波脆弱性が指摘されていたにも拘わらず、巨額の投資に怯んだ結果、想定外の巨大津波で原発が被災し、取り返しのつかない事態を迎えたという事例もある。

 政府も政府である。民主党政権は、国民受けを狙った事業仕分けの中で、「いつあるとも分からないものにカネを使うことは無駄である」と公言し、防災・消防予算を大幅に切り込み、あまつさえ、政府の地震再保険特別会計を廃止するという評定を行った。それを推奨した責任者が官邸で震災対策の陣頭指揮を執る枝野官房長官であることは何という皮肉であろうか。

 日本国民は、こういう短期的効率性を求める考え方と長期的安全安心を確保する考え方のせめぎ合いの中で、歴史から賢明に学びそこから教訓を得る必要がある。そして、政治的選択を含め自らの選択次第で、自分を、家族を、そして地域社会を守れるのであると認識しておく必要がある。

 平成11年10月20日の皇后陛下のお誕生日に際して「この一年間を振り返って、印象に残っていることは」との宮内記者会の質問に対するご回答の中で、皇后陛下が、「今年も天災、人災による幾つかの悲しい出来事がありましたが、8月に、昨年復興を宣言した奥尻島を訪れ、同時に北檜山、瀬棚等を訪ねて、復興の様を見聞することのできたことは嬉しいことでした。最近、災害の中でも、集中豪雨が、その集中度、雨量共にひときわ激しいものとなり、犠牲者の出ていることが心配です。子供のころ教科書に、確か『稲むらの火』と題し津波の際の避難の様子を描いた物語があり、その後長く記憶に残ったことでしたが、津波であれ、洪水であれ、平常の状態が崩れた時の自然の恐ろしさや、対処の可能性が、学校教育の中で、具体的に教えられた一つの例として思い出されます」とおっしゃっておられた。

 災害対応の本質を柔和なお言葉の中で突いた至言である。昔の教科書にあったこの「稲むらの火」は、残念ながら、今はない。

 私は、学校教育に防災の問題をきちんと位置づけることは、防災を単に個々人のレベルの問題として扱うのではなく、更にレベルを上げ、地方公共団体、国、更には「民族の遺伝子」のシステムとして組み込んでいくことにつながると考えている。我々の使命の一つには、「現代の稲むらの火」を探すこともある。

 そして、その「稲むらの火」を個々人で発見してほしいと思う。そのためにも、今回、若い世代に、是非とも東日本大震災の教訓を実体験してほしいと心底思う。例えば、大学生はボランティアで、或いは大学のゼミ単位で被災地に赴き、自分で被災地支援を行う。そして大学当局は、国家の非常事態に大学が国家に何を還元・貢献できるかで大学の存立意義が問われると考え、被災地の復興過程こそ生きた教材であると考え、学期の一定期間は大学の授業を休講にして、大学生の被災地支援活動を単位として認め、大学としてバックアップする気概がほしい。私も自ら属する大学にそのことを働きかけている。関東大震災時の東京帝国大学学生のボランティア活動に学ばなければならない。

 今回の東日本大震災は、日本民族にとっての大きな試練である。この時に各人がどのように考え、行動したかが、その後の日本の行方を決めるように思えて仕方がない。


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