〜似て非なるもの〜
私自身は公務員を28年経験し、2008年8月に自己都合退職し、政治の道を志した。私が入省した昭和55年当時と現在の公務員制度を巡る環境は、民間企業や研究者と同じように大きく変化している。しかし、公務員制度の在り方を巡っては、それがひとつの国政の一大課題とされるほど、大きな問題とされている。
官僚制度がこの国を縛っている、といった批判が加えられている。しかし果たしてそうなのか。私は、官僚制度と官僚主義が混同されているように思えて仕方がない。官僚主義は組織が大きくなると、官民問わずに生じうるものだ。情報の行き来が縦割りになり、情報共有がなされない。そのために時代の流れに沿った意思決定が行われない。これらの弊害はもとよりよくないことだ。
しかし、これはあくまでも官僚主義の弊害なのだ。一方で、官僚制度自体は、国家の存立にとって必要不可欠なものだ。さしたる資源も土地もない日本の国が、国際社会の中で先進国としての地位を保っていくためには、国家の運営に携わる優秀な官僚制度はなくてはならない。公務員制度も時代の有り様に柔軟でなければならないということは当然必要なことだが、その機能が脆弱でよいということは到底有り得ない。
政治の世界は、「一寸先は闇」だと言われる。民意というものに敏感に反応せざるを得ない政治は、少し前の意思決定と正反対の決断を平気で行うことがままある。しかし選挙民の意思ということでそのことは正当化されうる。
その意思を受けて行政に携わる官僚組織は、しかし、民主主義のルールに則りつつ、憲法と法令の下で、筋の通った仕事をしていかなければならない。さもないと国家としての矜持を問われることになる。
民間企業の活動は、国民が生きていく上で重要な経済活動だ。しかし、資本の論理は必ずしも好ましいことばかりは生み出しはしない。個々の企業の利潤追求は正しくとも、全体としてみて不合理なことは往々にしてある。合成の誤謬といわれる現象だ。現在の局面で言えば、正規社員を少なくし非正規雇用を多量に生みだしている企業行動は、個々の企業行動としてはやむを得ないものがあるにしても、日本経済全体として見ると、国民の購買力を失わせ、国内需要を減少させる。そのため、企業は更に輸出で稼ごうとするが、そうすればそうするほど貿易黒字となり、為替が円高に振れ、稼いだはずのドルが目減りする。そうなるとますます価値の高いものをより安く輸出しようとし、労働分配率を下げようとする。そうすると更に国内需用は減少する、といった行き場のないスパイラルに陥る。しかも勤労者の所得の減少は、社会の不安定化にも繋がりかねない。
このような局面では、政府の役割が必要となってくる。国内の消費需要をあげるために労働分配率を引き上げ、外需に支えられた現在の産業構造を転換し、内需依存型の安定した経済構造に移行することが、社会・産業政策として求められてくる。労働分配率の引き上げと同時に必要なのは、ユニバーサルサービスの充実だ。育児、養老、住宅、教育、公共交通、環境整備といった普遍的サービスの充実が今日求められている。
実はこれが内需拡大のバックボーン、受け皿ともなる。それを提供する一翼を担うのが、実は地方自治体である。その地方自治体の税財源を充実強化することが現在求められており、今日、更なる地方分権が求められているのは、社会のセイフティネットたる日本のユニバーサルサービス充実のため、内需型産業構造転換のためでもあるのだ。
私は、現役公務員時代、学生諸君に対して、行政官になることを勧める際に、以上のような発想で、「利潤動機」ではなく「価値創造動機」により、今後の国の有り様を考えていく仕事に携わることを勧めてきた。どちらかというと、現在は、利潤動機がもてはやされるような時勢のように見受けられるが、人間が利潤動機だけで動くものではないことは、世の中を広く見渡せば直ぐに分かることだ。
地域社会や人々の暮らしに深いシンパシーを持ち、歴史や文化をこよなく愛する感受性のある学生に、公務員、特に、地方を大事にする役所である総務省の門を叩いて欲しいと申し上げてきた。
そして私自身は、その総務省を去り、少し異なる世界から、同じように「価値創造動機」により政治の世界を目指すこととしている。
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