むたい俊介
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長野2区 自民党

【メッセージ】
「幼なじみの明石昌夫さんを悼む」

 スイス訪問から戻った直後の5月20日の夕方、定例の懇談会で明石昌夫さんとお会いすることを楽しみにしていました。しかし定刻になっても明石さんは築地のお店に現れません。何度も電話をしましたが、繋がらず、集まった皆で心配だと言って別れました。翌日になって連絡しても音信がありません。そうこうするうちに25日になり、懇親会に参加した人から「明石さんが亡くなった」との連絡があり、ネットで調べると所属音楽事務所からの発表があった旨、ネットニュースで流れていました。

 明石昌夫さんは、B’zのプロデューサーとしてミュージックエンターメントの世界では著名な方です。伝説的人物の長門大幸氏に見い出されてその世界に入り、努力と才能を認められ今日が有ると明石さんから聞いていました。

 明石昌夫さんは、私の小学校時代の同級生でした。長野県南安曇郡豊科町(現 安曇野市)の町立豊科小学校時代に、家族ぐるみで近所付き合いをさせていただきました。私の母親がピアノ教室を開いていたこともあり、昌夫さんは妹さんと一緒にピアノを習いに来ていました。家も歩いて1分ほどの至近にあり、私も昌夫さんの家には頻繁にお邪魔させていただきました。

 昌夫さんの自宅には、当時としては珍しいバンドの設備が備わっており、そこで子供ながら自由自在に当時はやりの楽曲を演奏する昌夫さんの姿に驚嘆した記憶があります。最近、昌夫さんが私に対し、「務台さんのお母さんからピアノを習い、音楽的基礎を身に付けてもらえたことが私の今日につながっている」と言っていたことは、それがお世辞だとしてもとても嬉しく思いました。

 昌夫さんは、当時、東洋紡豊科工場の責任者として赴任されたご音楽愛好家のご一家の長男として豊科小学校に通っていました。育ちが良く、頭脳明晰で、音楽などにも長けている昌夫さんは、同級生の中では、憧憬のまなざして見られていました。私も子供心に、都会の雰囲気というのはこんなにも我々と異なるのか、とカルチャーショックに似た感情を懐いた記憶があります。その昌夫さんも、御父上の転勤で関西に転校し、暫く音信が途絶えました。

 その後、私が大学を卒業し、霞が関に勤務し、数年経って群馬県庁に赴任している時に、群馬県に赴任されていた昌夫さんのお父上に偶然お会いする機会がありました。その時に、お父上から、昌夫さんが大阪大学基礎工学部を卒業したのに、就職もせずに音楽の道に進むと言って聞かないので困っているという「愚痴」を伺いました。昌夫さんは音楽の素養もありましたが、実は学力も抜群で小学生時代から目立っていた人なのです。私からは、才能のある人はその分野で頑張っていかれるのも良いのではないか、と変な慰めを申し上げた記憶があります。

 その後、時間が経過し、東京で小中学校の同級生の集まりを企画した折に、昌夫さんにもお越しいただいたことがありました。その頃には、昌夫さんは音楽プロデューサーとしてだいぶ力をつけていました。風体が若干普通と違っていることもあり、場は盛り上がりました。

 さらに時間が経過する中で、私が国会議員に当選し、様々な分野の方々と話をする中で、昌夫さんのことも話題になり、昌夫さんを交え、変わり種仲間で話をする機会が増えてきていました。昌夫さんの音楽変遷、そして、安曇野を自分で運転する車で何度も訪れ、半世紀以上前に住んでいた辺りをぐるぐる回ったという話もしてくれました。私が、当時住んでいた家にまだいるのだと伝えるとびっくりしていました。

 昌夫さんは、ユーチューブを駆使して、ファンに訴求する番組を持っており、政治家である私に対しても一般の皆さんへの訴求の仕方についてアドバイスを頂いていたところでした。

 それが、楽しみにしていた会合の前日に心筋梗塞で突然の旅立ちとなるとは、斬鬼に堪えません。これからはお互いのノウハウを生かして、ゆっくりと、しかし、アグレッシブに面白いことにコラボで挑戦しようと誓い合っていた矢先でした。悲しみに見舞われたご家族の皆様には、おかけする言葉も見出せません。せめて、お別れの会には何としても出なければならないと思っています。

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