「311から10年を経て考えること」
〜国家的正常性バイアスからの脱却〜

(10年前の3月11日を思い出す)
 東日本大震災から今年の3月で10年が経過しました。10年前の3月11日のことははっきりと覚えています。その日は早朝松本駅前で定例の街頭演説を行った後、大坂に向かい大阪市内の企業のCEOと対面の帰路、大阪から名古屋経由で松本に帰る途中の新幹線の中で大震災に遭遇しました。東海道新幹線は途中で立ち往生、辛うじて名古屋まで運行したものの、名古屋から松本に向かう特急「しなの」が突然運休。高速バスが運行しているかもしれないと考え、名古屋駅の近鉄バスの高速バス売り場に駆けつけるも早い時間のバスは既に満杯。2時間後に発つバスの最後の一枚を確保し、辛うじて「帰宅難民」にならずに済みました。東京の家族の安否を確かめようとするも携帯電話は繋がらず。名古屋駅の固定電話を見つけ、長い間使ってなかった「テレフォンカード」を持ち出し活用しました。家族全員が無事でおり東京代々木のマンションも大きな被害の無いことを確認できました。インターネットは当時使っていたEMOBILEが繋がり、メールのやり取りが可能なことを確認し、ツイッターを使い、松本の事務所職員の赤羽俊太郎君と連絡がつきました。夕方からの日程変更を相手方に伝えることがなんとか出来ました。この時に、列車のシステムは巨大システムで全体が繋がっており、1つのダメージで全体が機能不全になる一方で、バスは各個が独立で機動性があり、災害時の交通手段として「強い」ことを理解しました。大きなシステムの元で動く仕組みは、皮肉なことに大きな災害に弱いことも実感しました。ドコモ、AUとソフトバンクのシステムの災害脆弱性の差異も明らかになりました。前者は比較的よく耐えた一方で、後者は脆弱そのもの。インフラ整備に金をかけているのといないとの差異を再認識しました。システムは常に複数ルートを確保しておかなければならないこと、平時の経済効率性のみでものを考えると、非常時に手痛い打撃を受けること、東海道新幹線もいずれ確実に到来する東海地震、東南海地震に備え、複数ルートの確保が重要で、その場合、リニア新幹線も、東海地震の震源域に近く大断層の山脈に長大トンネルを貫通させるCルートではなく、明りの部分が多いBルートの方が、大規模災害時に強いものと思われること、を想起しました。普段僅か7分の差異の為に効率性のみの判断を下すことは国家百年の判断ミスになり得、大きな決断の際には、非常時を想定した国家的観点からの政治的判断も必要ではないかと心底感じました(しかし、結果は覆りませんでした)。深夜、松本インターの停車場に到着した際、何処に行ったらよいか迷っているバスの乗客2人を、迎えに来てくれた私の事務所の車に乗せ、駅まで送り、感謝されるといったこともありました。安曇野市の自宅に戻り、テレビで津波の被害を見るにつけ、災害列島日本の現実をまざまざと再認識しました。当時の民主党政権のキャッチフレーズ、「コンクリートから人へ」の浅薄さを感じた日でもありました。

(東日本大震災から10年を代議士として歩む)
 東日本大震災の翌年2012年の衆議院選挙で私は代議士に初当選しました。言ってみれば、私は大震災後の日本の復興過程の中で代議士活動をしてきたということです。2期目の代議士の期間の一時期、内閣府復興担当政務官として東北復興に携わらせて頂きました。そして東日本大震災から10年もたたずに、我が国は新型コロナウィルス禍に見舞われました。大震災や感染症パンデミックを経験し、国の在り方、政策の方向性について、否が応でも強い問題意識を持たざるを得ない立場に置かれてきました。

(平時と非常時の切り替えができない日本)
 私が代議士として最も強く感じているのは、日本は平時と非常時の切り替えができない国になっているとの思いです。それを象徴するのは、国会審議の内容そのものです。現在コロナ禍、或いは中国共産党の領土拡張の脅威という国難状況が続く中で、相も変わらず国会の野党側の関心は、「政権のスキャンダル追及」がメインです。政府が国難に対応しやすくするための政治休戦という選択肢は議論すらされません。東日本大震災の際に、当時野党であった自民党が、谷垣総裁のもと「政治休戦」を決断したのとは異なる対応です。このことに国民の多くはあきれ果てています。これも謂わば、国会自体が平時の感覚でコロナ禍の国会対応をしていると言える事象です。
 コロナ対応もしかりです。新型コロナに対応すべく新型インフルエンザ特措法が改正されましたが、予めこうしたことを想定して制度を用意しておくのではなく、新たな感染症が起きてから対応策を制度として用意するという手法になっています。起きる前に非常時を想定して準備するのではなく、起きてから制度を用意して対応する手法が日本の特徴です。その特措法の改正ですら、憲法に保障する基本的人権を侵す恐れがあるとして常に慎重論が沸き上がります。謂わば平時の感覚で非常時を論じるという発想です。災害対応も同様で、災害があるたびに災害宅策基本法などが微修正されて今日に至っていますが、その根本にある考え方は、やはり平時の感覚で非常時の制度のあり方を考えるという発想です。新型コロナワクチンに関しても、米国、英国、ドイツさらには中国、インド、ロシアが先行してワクチンを開発、接種開始に至っていますが、我が国はまだ開発段階です。その根本原因は、ワクチン開発能力の問題というよりも、開発したワクチンを接種段階にまでもっていく制度上の手続きに制約があり、今回のようなスピードが求められる時に全く手遅れになり機能しないということです。
 安全保障上の対応もまったく同様です。中国が国際海洋法に違反する内容の海警法を改正し、外国船舶への武器使用を容易にする制度を導入し、我が国の領土である尖閣諸島の奪取に向けての動きに加え、それを支える制度自体を強化しましたが、我が国はその中国の動きに弾力的に対応する制度が用意されていません。非常事態を想定する仕組みが不足していることは明らかですが、ここにも様々な制約があります。

(根源は日本国憲法の思想に)
 なぜ日本はそういう状態に陥っているのでしょうか。日本人の特質にそういう側面があるのでしょうか。いや、決してそうではありません。江戸末期の日本人は、迫りくる西欧列強の脅威を目の当たりにして、明治維新という大規模な制度の張替えを行ったのですから。私の考えでは、今の日本人の発想を突き詰めると、根源は日本国憲法に根差しているということができると思います。日本国憲法は、その前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」と規定しています。自分の安全と生存を自分で守り確保するのではなく、他国を信頼して依存するということを宣言しているのです。この理念自体は大変崇高で素晴らしいものですが、現実の世界の中で果たして通用するかというと疑問符がつきます。我が国の領土を不法占拠しているロシアや韓国、我が国の領土に野心を持つ中国、我が国の国民を不法に拉致し長期間にわたり帰還させようとしない北朝鮮。我々はこれらの国の「公正と信義に信頼」を置くことができるのでしょうか。しかも、不法を働いている中国、ロシアは、国連の安全保障理事会の常任理事国として拒否権が与えられているのです。
 加えて、憲法9条では戦力不保持を規定し、更には、非常時の国の対応についての基本的考え方を日本国憲法は規定していないのです。言ってみれば、我が国の憲法は、いざという時のことは考えずに、平和を前提の仕組みだけを考えていればよろしいと言わんばかりの考え方を国民に示しているということができます。
 現在の日本国憲法が日本が独立を回復する前の占領下で制定され、いわば主権に制約があった中で制定されたことを考えれば、今の日本国憲法の仕組みが日本という国の機軸を弱めて置くべきだとの発想に立って作られたことは容易に想像できます。しかし、戦後75年以上が経過し、今日の安全保障環境、大災害の経験、パンデミックの発生という事態を経験し、更には今後なお一層の危機的状況が見込まれる中で、いつまでもぬるま湯に浸かった考え方のものに国を放置しておくことは政治的不作為の誹りを免れません。
 そのためには、国の最高法規である日本国憲法に危機管理条項を規定し、平時と非常時のモード切替が必要である事態を前提とした法制度の束を作り上げていく努力が必要です。また、憲法9条に関しても、今日的な安全保障環境の激変を前提に、自衛隊の実態を踏まえた改正が必要です。

(行き過ぎは国会が検証)
 非常事態の際の行動を裏付ける制度を作って、非常時に限ってそれを動かし、そこに問題が生じれば適時適切に国会が行政府の行動を必要に応じて事前事後にそれを修正し、咎めるということが考えられます。非常時とも言えども、政府が暴走しかねないから、権限を政府に与えることは不要だ、今のままの制度で運用すれば足りるという考え方が常に出されますが、私はそうは考えません。非常事態は永続するものではなく、仮に行き過ぎがあれば、それを国会が咎め、事後的には民主主義のルールでその責任が明確にされることが正しい考え方だと考えています。実際、そうしないと、全体の国民の安全安心は確保できません。例えるならば、危険な感染症に罹患した個人が外出する権利を主張し、その為に多くの国民の命が危うくされるような場合、その個人の外出の権利は一定程度制約されてもやむを得ないと考えます。
 しかしそういうまっとうな議論がなかなか国会の場では進みません。非常事態の規定を憲法に規定する、憲法9条を実態に合わせて修正するといった議論を国会の憲法審査会で議論しようとしても、議論の仕方の入口で滞り、長い間憲法審査会は空転しています。そしてこうした国会の膠着状態について、一部のマスコミは批判する一方で、議論を急ぐなという慎重な立場をとるマスコミも少なからず存在することも事実です。

(正常性バイアス)
 正常性バイアスという言葉があります。社会心理学や災害心理学上の用語ですが、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまう人の特性を指す言葉です。自然災害や大事件、事故といった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを日常生活の延長線上の出来事としてとらえてしまい、「自分は大丈夫」、「まだ大丈夫」と過小評価し、結局逃げ遅れ等の原因になってしまうことを言いますが、いまや日本という国家がその正常性バイアス状態に陥っていると言っても過言ではありません。日本が、これから起きるであろう大規模危機管理事態の中で、「逃げ遅れ」にならない仕組みの構築、そうしたマインドを持たなくてはなりません。そしてそのためには、我々を取り巻く様々な環境、つまり安全保障環境の変化、地球温暖化の影響、災害の大規模化、パンデミックの発生可能性といった危機の発生可能性について客観的な情報共有とその評価が必要になってきます。
 我が国には諜報機関というものがありません。戦前の我が国にはありましたが、戦後、廃止されています。一方諸外国には当たり前のように存在します。国の安全保障のために必要だとの認識です。かてて加えて、我が国はスパイ防止法のような法律が無いこともあり、我が国における諸外国の諜報活動は世界一やり易いという評価があります。自らは諜報活動はせず、他所にはやらせたい放題、というお人よし状態です。まさに憲法前文にある、諸外国の「公正と信義に信頼」した結果を地で行っています。そろそろ正常性バイアスを抜け出し、真っ当な感覚に戻らなければなりません。個人として人が良い人は好かれます。しかし国家としてお人よし国家は相手に付け入れられる隙を見せ、国益を損することになります。

(真っ当な国に)
 戦後75年を経過し、311から10年を経過し、新型コロナ禍を経験し、我々はそろそろ覚醒しなければなりません。危機から国民を、領土を、地域社会を、日本の尊厳を守るために何が必要か。恐らく、今の状況下で、AIを使って日本の非常時対応に必要と思われる処方箋を作らせたら、真っ当な国にするための制度設計の束がたちどころに出てくることでしょう。そしてそれを妨げている日本人の精神状態を正常性バイアスに陥っていると診断することになることは明らかです。

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