「若者の政治参加と日本の民主主義」


 先日衆議院選挙立候補予定者の公開討論に参加した。地元出身の学生主催の討論会である。20歳代の若者の政治への関心を促す趣旨の企画であった。討論会自体は現職の欠席という点を除けば立候補予定者の考え方の違いが浮き彫りになるもので概ね好評であった。しかし、主催者側の意図という側面から見ると、必ずしもそうとは言えなかったかもしれない。

 皮肉にも会場に足を運んでいただいた聴衆の中に私の見る限り若年層はほとんどなかった。この現象はこの企画に止まらない。我々が身を置く政治活動や集会においても、若年層の参加は限られたものである。政治の世界では、60歳代の世代は「若手」と呼ばれるのが現実だ。

 これを単に若者批判で片付けることはたやすい。しかし若者は社会で過ごしてきた時間が最も短い代りに、最近の社会の風潮を、教育や、社会生活、メディアを通して最も強く受けている世代であるのも事実である。その意味で、政治に興味を示さない、参加しない若者の姿は、我々の社会のあり様を示す兆候でもある。

 投票率を見ると、上下はあるものの戦後低下をしつづけているのが長期的なトレンドである。選挙制度に変遷があるので単純比較は出来ないが、戦後70%台であった衆議院選挙における投票率は近年では50%台にまで落ちることもある。日本国民は次第に投票をしなくなっているのである。そしてその要因は若者の投票率の低下である。高齢者ほど投票率の減少幅は少ない。のみならず、70代に限れば投票率上昇の兆しさえある。

 高齢世代の政治参加に比べ若い世代の政治参加の低さは残念な現象である。将来の我が国の担い手が自らの未来を決める意思決定のメカニズムに参加しないことは自らの将来に大きな禍根を残す。何が若者の政治参加にマイナスの影響を与えているのであろうか。

 若い世代の意識に感じる点は、政治に対する醒めた見方である。強く自らの政治的信念を訴えるとの意識からはほど遠く、政治から距離を置く、あるいは政治そのものへの忌避という感覚があるように思えて仕方がない。政治過程を通じて社会や仲間の問題解決を図るということを忌避するというニヒルな態度である。

 企業の態度にも類似のものを感じる。「コンプライアンス」という言葉で政治との関係に暗黙のカーテンを引いている。コンプライアンスとは、規範意識ともいうべきニュアンスがあるが、この言葉の意味するところは広い。私の目には、個々の企業が行動していく上でのコンプライアンスと、より幅広い社会的責任を全うするための社会的コンプライアンスというものがあるように思える。個々の企業の自己保存の安全行動が結果として地域全体の社会的コンプライアンスを損ねることもあるように思えてならない。そして、若者が政治との距離を置くことと企業のコンプライアンスという言葉に象徴される政治離れとの類似性を感じる毎日である。これらの累積が国民全体としての政治離れに繋がっているとしたら、これは謂わば「合成の誤謬」である。個々の主体の合理的行動の結果が総体としては不合理な効果を生むということである。

 教育界の対応も同様である。教育において現実政治を教材とすることは少ない。先に挙げた学生団体は当初松本市内の大学の施設内でこの会を予定していたものの、「政治的中立」を理由に大学当局から会場使用を断られたとのことであった。全政党の参加を前提に若者の政治意識の高揚を促す公開討論会が、地域密着型の教育を重視するはずの大学当局から、政治的に中立でないという理由で断られたのである。大学当局は、どうも、政治とは地域政策とは異なる次元の近づいてはならないものだと考えているふしがある。

 また、メディアは政治家を批判するばかりである。権力のチェックはメディアにとって最も重要な機能である。しかしながら、それが果たして、政治家の政策、実績の検証や実現可能性のチェックとなっているものか甚だ疑問である。欧米のメディアに比べ、わが国のメディアの報道ぶりが、どうも政治家の瑣末な言い回しや枝葉末節の議論にばかり時間を割いているように思えるのは私だけであろうか。現在のマスコミ報道が本来の権力行使の是非のチェック機能を担っているのか甚だ疑問である。購読数アップや視聴率アップが目的だとしたらマスコミの機能が果たされていないと思わざるを得ない。少なくとも私が一年暮らしたロンドンで読んだ一流新聞紙の広告欄には、週刊誌のグラビア広告はない。

 こうした風潮の影響かどうか、20代の若者の投票率は30〜40パーセントに過ぎない。いつの時代も若者は投票率が低く、年齢が高くなるに従って投票率も高くなるという事実はある。しかし約30年前の20代(今の50代)の投票率は60パーセントであった。選挙制度の変遷はあるものの、不在者投票や投票時間の延長の上乗せを考慮すると相当の落ち込みである。この数字に、若者の政治的無関心さが如実に示されている。

 進学率などの上昇により高等教育を受ける層は拡大したものの、それが社会への責任感には結びついていない可能性がある。ある政治学者の投票分析によれば、ある世代の若年時の政治参加の割合でその世代が年をとったときの政治参加の度合いが予測できるという。現在60歳台以上の有権者が7割を超えている投票率が全体の投票率の底上げをしているが、残念ながら現状のままであれば今後はさらに投票率そして政治参加が減っていくことが予想される。

 国民が政治を必要としないのはある種の社会の成熟だとして諦めざるを得ないのであろうか。しかし、政治への無関心がもたらす弊害は深刻である。政治の世界が、若者にとって、あるいは能力に恵まれた人材にとって魅力のあるものでなくなったとき、それを担うのは強い地盤のある世襲議員となっていかざるを得ない。世襲議員も端から忌避すべきではないと思う。しかし、能力の検証がないまま、「座りがよい」との事情で世襲国会議員が選ばれていくとしたら残念なことである。

 民主主義の本イギリスの下院には、二世三世議員は殆どいない。稀にいたとしても本当に優秀な人材である。そうでないと厳しい候補者選出過程を這い上がっては来れない。翻って日本ではどうか。最初から知名度や地盤が備わっている二世、三世議員や、タレント、著名人でないと、きわめてハードルが高いのが現状である。新人が、それまでの職業を辞し全てを捨てて立候補しなければならない現状、そしてそこに政治忌避の意識が加われば、もとより新人にはあまりにも高いハードルはほとんど超え難い壁のように感じられてしまう。

 参政権は基本的な人権のひとつであるはずだ。しかし、若者の3人に1人しか投票に行かなければ、そうでなくとも相対的に若者人口の少ない中で必然的に若年向けの課題は後回しにされてしまう。事実、子育てや少子化対策、非正規雇用の問題は、高齢者福祉と比較しこれまで政策上の位置づけが相対的に重くはなかったとの印象がぬぐえない。我が国における社会保障支出中の若者や働く世代に対する公的支出の割合の低さがそのことを物語る。無関心でいることのツケは必ず巡ってくる。

 しかし変化の兆候はある。若年層はSNSやインターネットを通じたつながりは得意である。参加の機会があれば彼らなりに力を発揮するはずである。先の米国大統領選のように若者には参加への潜在的期待感がある。

 民主主義の手続きを経た政治的意思決定は、将来の日本のあり様を決める最も崇高な手段である。若者から政治を遠ざけることは、若者を社会における連帯意識、責任感から逃避させることになりかねない。投票率が極端に低い社会とは、国民が自立心を失い、社会的なつながりを失った社会である。政治を若者に魅力ある分野としていくことはわが国の将来の在り方にとって決定的に重要な要素である。我々の社会は、そのための社会的制度を構築していく必要がある。そうでないと、日本の民主主義が危うくなる。

<参考>
若者の投票率の変化については、以下の「明るい選挙推進協会」のホームページ参照。
http://www.akaruisenkyo.or.jp/070various/index.html



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